釈迦涅槃図(高龍寺蔵)
画家では、松前応挙などといわれた画家蠣崎波響(松前資広の5男)は、松前氏転封中の文化8年、高龍寺の住持に「釈迦涅槃図」の双幅を贈っている。「時文化辛未秋九月為松前函館嶴高龍寺十一世禅海上人、蠣崎源広年斎沐拝手写於波響樓」と為書(ためがき)がある。箱館生まれの画家としては入江北嶺と藤原永信がいる。北嶺は文化7年商家に生まれ(一説に旧家逢坂氏の出ともいう)、幼児他家の養子となって入江善吉といった。20歳のころ苦心して江戸の鈴木南嶺をたずね、その弟子となって北嶺を号した。天保10年に浅草観音堂に奉納した額の絵は、巨匠河鍋暁斉をして自分らの遠く及ぶところでないと驚かせたという。この絵には「箱館北嶺江貫謹筆」とある(明治14年没)。藤原永信は蛯子長兵衛の子で、天保4年に生まれたが、父長兵衛は観音の信仰厚く、あたかも箱館山へ西国三十三所の分霊場を建設中であったので、幼名を観作と名付けた。観作は幼い時から絵画に興味をもち、独学で一家の風格をみせ、皐玉と号して竹と観音を描くのが得意であった。のち京都にのぼって狩野永祥に師事し、その娘婿となったが縁なくして箱館に帰った。梁霞斉の号もある(明治8年没)。
また弘化年間箱館に来た平沢屏山は、奥州稗貫郡大迫村の人で、はじめ絵馬を描いて糊口をしのいでいたが、福島屋杉浦嘉七に見いだされ、嘉七の請負場所である日高や十勝へつれて行かれ、アイヌの実生活を観察することができた。彼はアイヌの家に住み、起居をともにしてその生活や風俗を写生したので、やがてアイヌ絵の第一人者といわれるようになった。市立函館博物館所蔵の『アイヌ風俗絵屏風』(一部分模写)などは有名である。
『ペルリ提督日本遠征記』には、一行中の牧師が、箱館のある画家に襖絵を描かせた話が載っているが、その敏速さ、華麗さに驚いている。