アメリカ艦隊の入港

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米国艦隊入港の図 「ペリー日本遠征記」より

 こうした市中の恐怖と動揺のなかに、いよいよ米艦が入港したのは4月15日で、まず同日は帆船マセドニヤン号、パンダリヤ号、サウザンプトン号の3隻が入港した。このときの状況について、松前藩の応接記録である『亜国来使記』によれば、次の通りである。
 
四月十五日 晴 (新暦五月十一日)
一 今朝五ツ半(午前九時)過、立待台場より辰巳の方沖合、凡五里程相隔て異国船二艘相見得、巳午の風にて酉戌の万へ向け䑺参り候得共、船嵩帆数等の儀は聢と見定め兼ね候段、同所詰遠見番の者より注進これあり候趣、工藤茂五郎申し達し候。
これに依て兼て相違し置候通、勘解由始め一同野袴割羽織にて持場え相詰、所々台場其外海岸警衛向厳重申し達し候処、又候前同様異国船一艘相見得、船嵩帆数等相分り申さず候得共、二艘の船より二里程相隔て䑺参り候趣、前同所より注進の旨茂五郎申し達しに候。
一 右注進これあり候異国船追々地方へ向け䑺参り、尤船嵩凡そ三千石積位にて、檣三本帆数数多掛居候旨、詰所遠見番の者共より申し出候処、前二艘の異船は昼四ツ半時(午前十一時)過、山背泊台場沖八、九町程相隔て碇致し候に付、兼て申達し置き候応接掛り代島剛平蛯子次郎稲川仁平外足軽共、橋船にて罷越し候処程なく罷帰り、左の通申達し候段、遠藤又左衛門石塚官蔵申達し、猶異国船より請取参り候書状差出し候に付、同人共並びに茂五郎立会いの上開封いたし候処
  左の通
手紙を以て啓達せしめ候。然らば当三月十三日武州神奈川出帆同州小柴沖碇、同月廿一日同所出帆、是迄豆州下田港滞留の亜墨利加船、箱館湊一見の儀、神奈川に於いて相願い候に付、林大学頭、井戸対馬守、伊沢美作守、鵜殿民部少輔より亜墨利加人え相渡し、貴様方へ差進め候書面の通り御心得、穏便に御取斗らいこれあり候様存じ候。此段拙者共よりも御意を得、斯くの如くに候。以上
       寅四月九日
           御徒目付
              中台信太郎
           下田奉行支配組頭
              黒川嘉兵衛
       松前伊豆守殿
           御家来中

 
 異国船は、予期した通り、持参の書状によってアメリカ船であることが確認された。また別書によってその模様を見ると、「十五日昼八ツ時(午後二時)過より七ツ時(午後四時)までに異国船三艘乗込み、先船一艘は弁天沖に掛り、あと二艘は山瀬地蔵堂沖辺まで、順々に碇をおろし申し候。但し先船は長さ二十間余、後は余程大きく相見得、中の一艘は取分け大きく長さ四、五十間程もこれあり、外廻り模様なども立派に相見得申し候。右は大将分乗船にもこれあるべきや、と申すことに御座候。大砲は前書二十間程の船にて片々に三、四挺づつ、大船にて片々十一、二挺づつ何れも筒先三尺程づつ外に出し居り、右三艘共にみよしの方にタタラようの仕懸これあり、大勢にて踏居候処、如何なる仕懸に候哉、自然と碇巻上り、それより元船相進め、先船は沖ノ口役所前十町余隔て澗懸り、二、三の船は西の方へ順々に相並び澗懸り仕候。」(東大史料編集所蔵『松前箱館雑記』)とあって、箱館市中ならびに海岸の警備取締は一層に厳重にし、近郷についても「亀田詰佐藤大庫へ飛札をもって申達す。有川詰太田脩三、種田徳右衛門、茂辺地詰近藤族、泉沢詰駒木根徳兵衛へは、遠藤又左衛門石塚官蔵より前段の通り相違させ候。」(『亜国来使記』)というように亀田から上磯、木古内に至るまできびしい警戒をとっている。