弁天岬台場

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 弁天岬台場は、同年11月金10万両の予算をもって工事に着手し、海面を埋立て石垣を築いた。この工事の請負は初め松川弁之助であったが、翌4年備前の石工井上喜三郎が加わり、後には主として喜三郎によって築かれたという。文久3(1863)年に完成したが、その形は6面で、前面左右各73間、右側73間、左側50間、後側25間1尺、後面は最も長く96間1尺余、合計周囲390間2尺余あり、高さは約37尺とした。東南端に門1つを設け、大砲眼は60斤砲2座と24斤砲13座を設置した。

弁天岬台場(岩城福三郎氏写真提供)

 これより先、安政元年ロシア軍艦ディアナ号が津波により下田で破損したため、幕府に願い出て新たに帆船を造り、翌2年3月使節プチャーチン以下一同がそれに乗って帰国した。後ロシア皇帝はこの感謝の証として、下田に残したディアナ号の備砲52門をわが国に寄贈したので、その内若干門が回送されてこの砲台の備砲となっている(しかしこの砲も明治2年箱館戦争の際、脱走軍が回天艦に移して使用し、回天が新政府軍に撃破されて砲とともに海底に沈んだのを、後年内4門が引揚げられ、公園に陳列してあったが、明治43年に至り陸軍省の要求で、その内2門を東京遊就館に贈った)。台場の土石は箱館山から取ったが、重要な場所には備前の御影石を大坂から取寄せて使用した。
 この台場は明治29年港湾改良工事のため取崩したが、当時この工事を担当した工学博士広井勇は、この築設は今日の工法に比して少しも劣るところなく、四隅に鉄柱を貫通して堅牢ならしめるなど、その用意周到なことを驚嘆したと伝えられている。このような完全な台場を、安政の昔、外国書の記述のみに基いて築いた武田斐三郎は、まさに偉大なる人物というべきであろう。