弁天岬台場(岩城福三郎氏写真提供)
これより先、安政元年ロシア軍艦ディアナ号が津波により下田で破損したため、幕府に願い出て新たに帆船を造り、翌2年3月使節プチャーチン以下一同がそれに乗って帰国した。後ロシア皇帝はこの感謝の証として、下田に残したディアナ号の備砲52門をわが国に寄贈したので、その内若干門が回送されてこの砲台の備砲となっている(しかしこの砲も明治2年箱館戦争の際、脱走軍が回天艦に移して使用し、回天が新政府軍に撃破されて砲とともに海底に沈んだのを、後年内4門が引揚げられ、公園に陳列してあったが、明治43年に至り陸軍省の要求で、その内2門を東京遊就館に贈った)。台場の土石は箱館山から取ったが、重要な場所には備前の御影石を大坂から取寄せて使用した。
この台場は明治29年港湾改良工事のため取崩したが、当時この工事を担当した工学博士広井勇は、この築設は今日の工法に比して少しも劣るところなく、四隅に鉄柱を貫通して堅牢ならしめるなど、その用意周到なことを驚嘆したと伝えられている。このような完全な台場を、安政の昔、外国書の記述のみに基いて築いた武田斐三郎は、まさに偉大なる人物というべきであろう。