「松前辺」から「箱館湊」へ

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 ところで、アメリカ船の行先は、老中達では「松前辺」、松平乗全書状では「松前表」となっていたが、それが具体的には「箱館湊」であることを幕府から松前藩に正式に知らされたのは、3月6日のことであった。すなわち同日、海防掛勘定奉行石河政平が老中阿部正弘の指示により、松前藩江戸屋敷詰家臣に対し、「今般渡来之亜米利加船退帆後、箱館湊見置度旨願出候ニ付、別紙写之通、林大学頭始四人より彼地詰役人中江之書面、異人江相渡置候間、其段彼地江相達、不都合之儀無之様可取計候」(『幕外』5-255)と達し、「松前伊豆守殿家来中」宛の応接掛書面写には、「此節神奈川沖江渡来之亜墨利加船退帆之節者、箱館湊見置度旨願出候ニ付、見置候迄者格別、上陸者不相成趣申渡置候得共、異人之事故、強而上陸いたし、且測量等可致も難計候、右之節者、何事も穏便ニ取計可申候、尤御老中方より御達有之候義与者存候得共、其前異船罷越候茂難計候ニ付、我等共より為心得申達度、異人共江書面相渡置候者也」(『幕外』5-256)とあった。さらに石河政平は、アメリカ船が箱館に入港した際の取扱い方について、(1)アメリカ船は、下田・箱館における食料薪水等欠乏品の供給を要望するため、箱館湊の船懸等の調査に行くので港内の測量は許可すること、(2)薪水食料の供給を要望した場合はそれに応じること、ただし、代金の受け取りは断り、謝物として強いて出した場合はとりあえず受け取りおき、同船に与えた薪水食料等の品及び謝物として受け取った品はすべて書面に記し、追てその品を江戸へ送ること、(3)上陸はしないはずではあるが、もし上陸やその他勝手な要求をした場合は、穏に断ること、(4)その際、地所借用その他のことを要求しても、総て松前藩主より幕府へ伺ったうえでなければ、いずれも返答しがたい旨答えること、(5)アメリカ船渡来中の始末をもれなく書面に記し、日記をもそえ、退帆後幕府に詳細を報告すること、の諸点を指示した(『幕外』5-257)。
 右の幕府の達書がいつ松前に到着したのか定かでないが、先の老中達の城下到着まで要した日数や他の急便の江戸-松前間の日数(11~14日)、さらには、松前藩のアメリカ応接の責任者家老松前勘解由が3月22日には箱館入りしている事実(「亜墨利加一条写」)などを勘案すると、おそらく3月17~20日頃に到着していたものと思われる。もっとも、「北門史綱」嘉永7年3月15日条に「亜墨利加船箱館ヘ来航ス可キ事ヲ沿岸一般ヘ公布ス」とあって、次に「今般神奈川沖ヘ渡来ノ亜墨利可船退帆ノ節、箱館港見置度旨願出候ニ付、御聞届之上近々当港ヘ渡来候趣公辺ヨリ御達有之候」との文言で始まる2か条よりなる触書(後述)が収録されているので、この点よりすれば、3月15日以前に到着していたことになるが、いくら急便とはいえ、江戸から松前に9日以内(御触を出すまでの藩内での検討期間を考慮すると、実際上は8~7日以内)で到着することはまず不可能である。事実、上記の触書が箱館市中に公布されたのは、3月15日ではなく、3月28日であった(「御触書写」)。したがって、「北門史綱」の右の記事は誤りといえよう。
 このように、松前藩庁がアメリカ船の渡来地が箱館であることを知ったのは、3月17~20日頃のことであった。また松前藩は、その応接役に家老松前勘解由、用人遠藤又左衛門、町奉行石塚官蔵箱館奉行工藤茂五郎をあて、藤原主馬(砲術師範)、関央(藩校徽典館旬読師)及び箱館代嶋剛平蛯子次郎の4名に応接方を命じたが、松前勘解由が同役に任じられたのは、3月20日なので(安政元年「亜墨利加船箱館中御用記写」4月26日条、以下「御用記写」と略す)、他のメンバーも同日に任じられたものとみられる。かくして松前藩は、以後アメリカ船(ペリー艦隊)の箱館渡来に備えた諸対応策に追われていくのである。