さて、2艘の異国船が山背泊沖に停泊するや、応接方代嶋剛平・蛯子次郎・稲川仁平外足軽が1番入津の船へ派遣されたものの、「言語一切相分不レ申、メリケン与申事而已相分何事茂通じ不レ申」という状態。いたしかたなく手真似で渡来目的、類船の件、乗組人数等を尋ねたが、もとよりこうしたことを手真似でできるはずもなく、結局意志の疎通を殆どできないまま、ただ船長とおぼしき人物から1通の書状を受取ったのみで戻らざるを得なかった。ところが幸いにも、この書状は、松前氏家来に宛てた下田奉行支配組頭黒川嘉兵衛、徒目付中台信太郎連名の書状(安政元年4月9日付)で、内容は、先の林大学頭等応接掛連名の書状通りに心得、「穏便」に取扱うようにと記したものであった(「御用記写」、『幕外』6-59と同文)。その後「昼九ツ時頃」(正午頃)もう1艘の異国船が弁天崎台場沖へ碇泊したので、再び応接方(新たに藤原主馬・関央が加わる)を同船に派遣したところ、先の渡来船と同様、下田詰の黒川嘉兵衛・中台信太郎連名の書状(内容も前と同文)を差し出したので、これによって箱館詰役人たちは、これら3艘の異国船がともに幕府から通告のあったアメリカ船であることを確認することができたのである(「御用記写」)。
これら3艘のアメリカ船は、4月10日下田を出帆した3本檣、横帆式の帆走船マセドニアン号、ヴァンダリア号、サザンプトン号であったが(『随行記』『遠征記』)、松前藩側は、アメリカ船と知るや、4月15日、改めて海岸・市中取締向を厳重にするよう申し達すとともに、その旨を亀田詰佐藤大庫、有川詰吉田修三・種田徳左衛門、茂辺地詰近藤族、泉沢詰駒木根徳兵衛へ達した(「御用記写」)。なお、「御用記写」の記述と『随行記』・『遠征記』の内容をあわせ考えると、「御用記写」の1番入津船は、ヴァンダリア号、2番入津船はマセドニアン号、3番入津船は、サザンプトン号とみてほぼ誤りがないようである。
これら先発の3艘の任務は、箱館湾及び箱館港内の測量にあったため、翌16日には早くも測量を開始し、17日には3艘ともに澗内に碇泊して港内の測量を開始するとともに食料・薪水の供給については、すでに幕府より指示があったためにそれに応じたものの、市中見物についてはこれを拒否した。これらの交渉は、すべて漢文での筆談を介して行われたが、その筆談の中で、3艘の他にさらに「火船」「火輪船」が渡来することを知らされた(「御用記写」)。「火船」「火輪船」とは、中国語で蒸気船の意である。
果たして4月21日「朝五ツ時頃」(午前8時頃)、先の3艘の帆船よりはるかに大きい2艘の「火輪船」が箱館沖に姿を現し、箱館山沖をまわって、澗内へストレートに進み、「昼四ツ時頃」(午前10時頃)2艘とも沖の口役所沖に碇泊した。この巨大な「火輪船」こそペリー艦隊の旗艦ポーハタン号とミシシッピー号であった。しかも先の3艘とちがって、いっきに港内に入り、沖の口役所沖に投錨したのである。まさにペリーらしい入港のしかたであった。3艘が碇泊するや、ただちに応接方藤原主馬・関央・代嶋剛平・蛯子次郎が橋船でポーハタン号に赴き、ペリー付通訳ウイリアムズと会見、次いでマセドニアン号に向かい、同船で先の松前氏家来宛応接掛林大学頭等の書状及び浦賀奉行組与力合原猪三郎・徒目付平山謙二郎連名の書状(共に3月9日付)を受取った。後者には、「亜美理駕(アメリカ)船伊豆守(松前崇広)殿領分箱館湊為二見置一罷越候義ニ付、林大学頭初連名之別紙壱通異人江相渡置候間、披見之上書面之通可レ被二取斗一候」(( )内引用者、「御用記写」)とあった。
ポーハタン号
ヴァンダリア号
マセドニアン号
サザンプトン号
ミシシッピー号