さらにそのスピードも弁財船よりはるかに速かった。当時、箱館-江戸間の太平洋航路(東廻り航路)は、箱館-敦賀間、あるいは箱館-下関-大坂間の日本海・瀬戸内航路(西廻り航路)よりも危険が多かったため、それに要する日数も後者よりはるかに多く、速くとも20日前後を要したが(松本家文書「長者丸日記」『松前町史』史料編第3巻)、ヴァンダリア号・マセドニアン号・サザンプトン号は、下田から箱館に僅か5日で到着し、ポーハタン号・ミシシッピー号にあっては、4日で到着した。ともに弁財船とは比較にならない程の速さで箱館に到着したのである。もっとも、3艘の帆船が箱館に入港した際、松前藩の役人たちは、未だ同船の速力を知ることができなかったが、4月21日、ポーハタン号とミシシッピー号の「火輪船」が入港した際、ウイリアムズと広東人羅森を介して両船がともに4月18日に下田を出帆し(『随行記』は17日)、21日箱館に到着した旨を聞かされて初めてその速力のただならぬことを知ったのであった(「御用記写」)。ウイリアムズは、「われわれがわずか四日の航海でやって来たことに、彼らは少々驚いていた」(『随行記』)と記しているが、松前藩の役人たちの驚きようは、まさにウイリアムズの記すとおりであったとみてよい。
とりわけ2艘の艦船が松前藩の役人のみならず箱館の住人に大きなショックを与えたことは、「亜墨利加一条写」に「火舟図の如く造り方大丈夫にして、大筒小筒厳重ニ備へ、舟中にて石炭を焚、海上ニおゐてハハ自侭に見得たり、殊ニ波風を不レ嫌」とあることや、城下松前の豪商伊達林右衛門が「廿一日、蒸気船両艘渡来、其勢ひ雷の如く、先船ハ出迎大威張ニ相見候儀ニ御座候」(伊達家文書「江戸状書扣」)と記していることからも窺い知ることができる。しかも、これらの艦船はみな黒塗りの船であっただけに、日本人に対する威圧力は一層際だったものとなった。こうしてペリーは、以後これら5艘の艦隊とその軍事力を背景にして、まさに「大威張り」で松前藩役人との交渉に臨んでいくのである。
表序―1 ペリー艦隊一覧(1854年)
艦船名 | 種別 | 建造(再建)年 | トン数 | 乗組員数 | 積載砲数 | 艦長名 | |
砲撃用 | その他 | ||||||
○ポーハタン Powhatan | フリゲート艦 | 1852 | 2415 | 300 | 6 | 3 | Capt.W.J.McCluney |
※○ミシシッピー Mississippi | 〃 | 1839 | 1692 | 268 | 12 | 0 | Cdr.S.S.Lee |
※ サスケハナ Susquehanna | 〃 | 1850 | 2450 | 300 | 6 | 3 | Cdr.F.Buchanan |
○マセドニアン Macedonian | スループ型砲艦 | 1832 | 1341 | 380 | 6 | 16 | Capt.J.Abbott |
(1853) | (1726) | ||||||
○ヴァンダリア Vandalia | 〃 | 1828 | 770 | 190 | 8 | 16 | Cdr.J.Pope |
(1848) | |||||||
※△(プリマス Plymouth) | 〃 | 1843 | 989 | 210 | 4 | 18 | Cdr.J.Kelly |
※ サラトガ | 〃 | 1842 | 882 | 210 | 4 | 18 | Cdr.W.S.Walter |
○サザンプトン Southampton | 運送船 | 1842 | 567 | 45 | 0 | 2 | Lieut.J.J.Boyle |
レキシントン Lexington | 〃 | 1826 | 691 | 45 | 0 | 2 | Lieut.J.J.Glasson |
(1843) | |||||||
サプライ Supply | 〃 | 1846 | 547 | 37 | 0 | 4 | Lieut.A.Sinclair |
ピノオ編・金井圓訳『ペリ一日本遠征日記』(新異国叢書、第Ⅰ輯1)所収「付録B,マシュー・C・ペリー提督を指令官とする合衆国極東艦隊(1853-1854)所属艦船一覧」及び加藤祐三『黒船前後の世界』より作成.
※印は嘉永6年6月3日、ペリーが初めて浦賀へ来航した時の艦船、○印は安政元年4月15日~21日、箱館来航の艦船、フリゲート艦は蒸気艦,、他は3本檣・横帆式の帆船、△印のプリマス号は第2回日本遠征の際、上海に残留.
Cdr.はCommodore 提督、Capt.はCaptain 艦長、Lieut.はLieutenant 大尉