井上石見が横浜に出張した主任務の内、ロワ号買入交渉というのは、旧幕府箱館奉行杉浦兵庫頭が箱館在留のイギリス商人ブラキストンを仲介として、杉浦兵庫頭が清水谷公考に引継を行う2か月前の慶応4年3月、買入契約を交わしていたもので、契約の内容は、契約金額は8万9500両で、契約時に内金2万6500両が支払われ、残金は船受渡し時に支払うというものであった。このロワ号が、5月30日箱館港に入港してきて、箱館府に残金の支払いと船の引取りを要求してきたのである。
汽船は蝦夷地経営のための物資輸送に不可欠の存在であったので、箱館府はロワ号買入交渉を継続することに決し、新政府の財政当局に資金の捻出を依頼するためと、プロシア側との交渉のため井上石見が横浜へ向かったのである。しかし、財政基盤が脆弱で軍需費の捻出に苦慮する新政府相手の金策交渉は、まったく目処が立たず、また船の引渡しには現金1万ドルが最低条件であるとするプロシア側との交渉も進展をみなかった。万策尽きた石見は、新政府から金策することを断念し、参与小松帯刀清廉(薩摩藩士)の仲介を受けて、一時イギリスの銀行から資金を借入れることにした。イギリス公使を通じて2万ドルの借入れが成り、内1万ドルで、6月25日プロシア商船ロワ号の買入交渉がまとまった。残りの1万ドルは、開拓資金としてロワ号と共に箱館へ送られた。
この1万ドルの使途について、井上石見は石炭採掘費用に当てたいと述べている。箱館府は、旧幕府期に開発に着手した岩内炭山を引継ぎ、旧幕府の岩内炭山担当者をそのまま任用し、さらに京都から付属してきた小田数男をも派遣して、石炭採掘に強い関心を示していたのである。しかしこの金が採掘費用として用いられたかどうかは不明である。
一方、箱館府付属船となったロワ号は、箱館丸と改名され、生産方所属となり、7月20日、仙台藩が退去してしまった白老に、警備のため権判事巌玄溟以下を送り込んでいる。次いで、択捉根室の視察に向かった井上石見一行を乗せて北上したが、帰途行方不明になってしまった。ここで箱館府は、実質的な政務の責任者であった井上石見を失ったため、以後、箱館府の開拓施策は停滞を余儀なくされたのである。
なお箱館府は、当事者としてではなかったが、もう1隻の外国船買入交渉にも関与している。奥羽鎮撫総督府の指示を受けた秋田藩が、箱館でブラキストンを交渉相手として、米国商船カガノカミ号(のち陽春艦と改称)を買入れた際、仲介者として関与したものである。7月12日、契約金額6万7500両の内2万両が支払われ、船の受渡しが行われた。その後、秋田産の銅や米などで分割払いが続けらたが、10月に入っても1万7500両が未払いのまま残っていた。
このため、出兵費用の捻出に苦慮していた奥羽鎮撫総督府に、代金の立替を懇請された箱館府は、ブラキストンの再三に渉る支払請求の矢表に立たされることになったが、府職員の月俸さえも滞るぼどになっていた箱館府は、この問題の処理能力を喪失してしまい、奥羽総督府に窮状を訴える書面を発して、善処を要請せざるを得ない状態に追込まれていた。このような時、旧幕府脱走軍が襲来、清水谷知府事以下がこのカガノカミ号で、青森へ避難し、交渉は暫く中断してしまった。翌2年末に秋田藩が残額を皆済して、ようやくこの問題に終止符を打つこととなったのである。