蝦夷地の警備は、秋田、仙台、南部、津軽、松前の5藩が、精兵の派遣を命ぜられ、旧幕府期とほぼ同様の警衛区域を担当することとなったが、秋田藩は、自国内が戦乱に巻き込まれて最初から派兵の余裕がなく、仙台藩は、白老に本陣を設けて守備兵を派遣していたが、藩論が奥羽越列藩同盟加盟にまとまり、7月12日の箱館留守居退去と同時に、白老本陣も引き払ってしまった。南部藩は、旧幕府奉行所から引継いだ若干の銃と砲兵以外手兵を持たない箱館府に代わって箱館の治安維持に任じ、弁天岬台場の守衛も担当していた。しかし、この藩も奥羽越列藩同盟に加わることになり、8月12日ブラキストンの仲介で雇い上げた米国商船オーガスト号で、全員退却した(上山半右衛門「日記」)。この時、南部坂の南部陣屋(現ロープウェー駅一帯)を焼き払い、弁天岬台場の大砲を使用不能にしていった。津軽藩は、南部藩との戦闘に備えるため、8月14日藩兵を全員帰国させた。松前藩も正義隊によるい藩変革が進行中で、自領の保全が精一杯となっていた。
奥羽戦争の余波がいつ蝦夷地を襲うかも知れないという状況の中で、諸藩の警備兵がすべて帰還してしまった箱館は、一層不安定な状態に追込まれていたのである。
また、箱館府の諸役を迎えた箱館市在の士民は、箱館府の施政に対し懐疑的な冷ややかな目を向けるものも多く、在住隊士某は、京都下向の諸役人に対する感情を、次のように吐露している。「京都の付役、下々は申すに及ばず、独身の若者共多く、日に随いておごりに長じ、遊里に通ひ、又はかこいもの或は妾、手かけをもうけ、近習小性侍迄夫々に妾妻を置、挙げ句のはてには親指(知府事)へも、十三、四なる女子ををば十二ひとえに着飾らせお進め申上げ、銘々も表向にて女房を持、朝出勤は四ツ(十時)を過、夕退散は七ツ(四時)限り。市在の噂口々に、貧乏ものの嫁入りにて長持は迚も有まひ」(「峠下ヨリ戦争之記」)。
7月には、浪人花輪五郎、在住平山金十郎らによる裁判所襲撃未遂事件も発生し、人心の動揺に拍車をかけることとなった。
そこで箱館府は、取りあえず箱館警備の府兵を組織することとし、旧幕府以来の「在住」を中心とした在住隊、近在の百姓の子弟等を構成員とした親兵隊の2小隊が作られ、南部藩が大砲の砲身を破壊して退去した弁天岬台場には、旧幕府以来の水主足軽を砲兵として配備し、砲身の修理も行った。
さらに東北の政情に不安を感じていた箱館府は、中央政府に対し、警備兵の派遣を依頼した。新政府は、旧幕府海軍の動きに強い関心を示し、彼ら旧幕府海軍が蝦夷地を指向していることを知っていたこともあって、箱館への派兵を決定した。越前大野藩や弘前藩の兵士が箱館に到着するのは、旧幕府脱走軍の鷲ノ木上陸とほとんど同時の10月20日で、以後箱館は箱館戦争の激浪に翻弄されることになるのである。