この時の箱館は政情が非常に不安定な状態に追い込まれていた。この年の閏4月末、蝦夷地開拓を目指して青年公卿清水谷公考が箱館府知府事として乗り込んでいたが、彼の参謀として箱館府の実務を担当していた井上石見が、北方視察の旅へ出たまま船が沈没し行方不明となっていた。箱館府は舵取りをなくした上、北越・東北地方の戦乱のため、物資の流入も途絶えがちで、町は活気を失い、市民は不安におののいていたのである。
このような時、最後まで去就を迷っていた南部藩は、藩論が奥羽越同盟加盟に決定、勘定奉行山本寛次郎らが派遣され、7月29日に盛岡から船で箱館に着いた。南部藩は、箱館に本陣屋を構え箱館から室蘭付近までの警衛を担当していた藩で、蝦夷地の警衛を任されていた東北諸藩中箱館在勤者が最も多く、箱館府からは弁天岬台場の守衛や五稜郭の門衛も任されていた藩であった。8月2日四ツ時(10時)、盛岡から派遣された人々と、上山半右衛門守古(留守居役)、七戸権兵衛(留守居役)、大島高任(大砲方)らが藩の留守居所で打合せを行ない、箱館退去日を8月13日と決定した。またその日の午後には、フランス商人ファブル、ハルハラを留守居所に招いて箱館脱出のための蒸気船雇入れと銃器購入のための南部銅売買交渉を行った。なお、大島高任は、安政4(1857)年12月1日(鉄の記念日)に釜石の洋式高炉で銑鉄製造に成功、藩の大砲方に任ぜられた人物で、明治元(1868)年4月からは主に箱館にあってフランス商人ファブルと南部産青銅と鉄砲の交換交渉を行っており、6月19日にはイギリス商人デュースを通じて鉄砲500挺(代金1万274両1分)を銅10万斤および金子1000両で入手していた。手に入れた鉄砲の内訳は次の通りである。
シュナイダーライフル(釼付後装式施条銃)100挺(1挺ニ付金28両2分1朱銭136文)計 金2858両1分
インフィールドライフル(釼付前装式施条銃)400挺(1挺ニ付金18両2分銭272文) 計 金7416両
8月6日にはイギリス人ブラキストン(仲介人は越前屋慶之助)から、同人所持の蒸気船オーガスト号(外車船)を期間15日、代金5000両で雇い入れる契約が成立した、しかし、借受け名目は差支えがあるので、名目は南部へ牛を買い入れとし、肥後熊本藩の上林熊次郎名義で8月8日に箱館府から出帆免状を受けた。
オーガスト号は8月9日、七戸権兵衛、山本寛次郎らが乗り組み、荷物80箇を積み込んで準備のために野辺地に向かったが、野辺地ですでに南部藩が久保田藩と戦闘状態に入ったことを知り、11日には箱館の留守居所へ急報のため戻ってきた。留守居所で相談の結果、その日の夜12時に一同引揚げに決定、準備を進め、夕方から津軽家留守居奈良荘左衛門を招いて酒会を開催、彼へ箱館府への趣意書提出と南部藩一同のオーガスト号乗組み見届けを依頼した。12日四ツ時前、陣屋の責任者番頭葛西正兵衛以下が留守居所へ集合、ブラキストンの居館構内から橋船でオーガスト号へ乗船した。この時南部陣屋から火の手が上がり7時頃まで燃え続けた。この火事は彼らが故意に火を付けたものか、単なる失火かは不明である。オーガスト号は朝7時に箱館港を出帆、午後3時頃野辺地に着いている(「上山半右衛門日記」14)。
南部藩の引揚げ見届けを依頼された津軽家留守居奈良荘左衛門は、五稜郭へ南部藩の届出書を提出すると同時に、南部藩との戦闘が想定されるとして、千代ヶ岱の津軽陣屋詰一同の引揚げを箱館府へ申請した。文武方権知判事堀真五郎(長州藩士)は「御警衛御免被仰付候間、帰藩勝手タルベク、尤鎮定ノ処ニテ又々御守衛可相勤」と伝えざるを得なかった。津軽藩も13日には帰藩した(「津軽藩戊辰藩情」『函館戦争史料』)。これで東北諸藩の姿はまったく箱館から消えたのである。