役員選挙と蝦夷地領有宣言式

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 脱走軍は、徳川家による蝦夷地開拓の許可がおり、血胤者の派遣をみるまでの措置として、上等士官以上の者による入札で総裁以下の役職を決めることとなり、12月14日、各国領事にその旨通知した。脱走軍の主張が簡潔に示されているので次に掲げておく。
 
    領事殿
箱館と松前地方及び噴火湾の北部地方において、軍事上及び行政上の問題が満足のいく解決を見たことを謹んでお知らせいたします。私達の政敵すべてを服従させ、住民の信頼を得ることに成功しました。アイヌ民族の多くにも日本人住民と同様に我々の目的を理解させ、彼らを保護することを約束しました。彼らアイヌの長達は、我々が前進することを期待していることの証明のため、我々への訪問団を組織しようとしている事を伝えてきました。我々は必要な場所に徳川の恒久的な知事を選出し、幾人かはすでにそれらの地へ赴任しました。我々はすぐに二名の最高責任者の名前と彼らの指令下で諸業務を委任される役人の長官をお知らせいたします。任命はユニバーサルな投票法によって選挙されます。これは、天皇陛下に依頼した徳川のプリンス到着までの堅固な仮行政組織です。我々は一月二十七日(陰暦十二月十五日)に蝦夷全島を事実上我々の占有としたことを厳かに宣言しようと思います。午前中の好機に港を守る箱館の砦(弁天岬台場)で一〇一発のカノン砲を撃つ予定です。我々は日本人民に通告したように、あなたがたにも同様にするのが義務と信じ、明日発射する礼砲の目的をこのようなかたちでお知らせいたします。
敬具     
 蝦夷政権の名のもとに
    陸軍司令官 (署名)松平太郎
    海軍大将   (署名)榎本釜次郎
(「イギリス外務省文書″日本通信″」)     

 
 12月15日、蝦夷地領有宣言式が行われ、入札(表1-8)によって蝦夷島総裁榎本釜次郎、副総裁松平太郎以下の諸役が決定された(図1-1参照)。彰義隊の改役で五稜郭週番士官を勤めた丸毛牛之助は、入札の様子を「半隊長以上をして総裁、副総裁等を投票せしむ、予は榎本氏を総裁に松平氏を副総裁に、永井氏を箱館奉行に投票せり、開札するに及んで多数を以て榎本釜次郎総裁と為り、松平太郎副総裁と為る」(「感旧私史」)と記している。仮政権が樹立されたわけである。なお、終始「徳川脱藩家臣」を標傍した彼らの仮政権には「蝦夷共和国」と呼べるようなものはなく、公選という行為のみに目を奪われた幻影のようなものである。しかもこの入札による公選は、入札者が士官以上(脱走軍総数の3分の1ほどか)に限定され、箱館市民はさて置き、脱走軍だけをとっても共和制といえるような公選ではなかったのである。
 この日の様子を、杉浦清介は冷静に「十五日晴、全島鎮定ノ祝砲午第十二時ヨリ回天及ビ台場ニテ発行、五稜郭ニテ、頭等ジンネル盛宴有リト云」と記している(「苟生日記」『維新日誌』)。また、新撰組隊士中島登は、彼の「覚書」(『歴史読本』昭和55年7月号)に、「市中尽ク神灯ヲ備、徳川氏快復ノ業ヲ祝ス、総裁ヨリ各隊エ酒肴被下、夫ヨリ長官ノ役々相定ル、当隊箱館市中取締被命」と記し、さらに「翌年四月迄泰平ニ納ル」と続けている。
 旗艦開陽を失った海軍は、開陽艦長沢太郎左衛門を開拓奉行、開陽乗組員らを開拓方とした。2年1月15日、高尾丸(原名アシュロット)で200人余が、蝦夷地開拓の基地と決めたモロラン(室蘭)へ向かった。しかし、開拓策に着手する前に新政府軍との戦闘が開始されたためもあってか脱走軍開拓方の業績といえるようなことは確認できなかった。
 
 表1-8 入札点数表
A

氏名
点数
榎本釜次郎
松平太郎
永井玄蕃
大鳥圭介
松岡四郎次郎
松平越中
土方歳三
春日左衛門
関広右衛門
牧野備後
板倉伊賀
小笠原佐渡
対馬章
156
120
116
86
82
55
73
43
38
35
26
25
1
856

B

氏名
点数
氏名
点数
総裁榎本釜次郎
松平太郎
永井玄蕃
大鳥圭介
155
14
4
1
174
海軍奉行荒井郁之助
沢太郎左衛門
柴誠一
甲賀源吾
松岡盤吉
古屋佐久左衛門
73
14
13
9
2
1
112
副総裁松平太郎
榎本釜次郎
大鳥圭介
永井玄蕃
荒井郁之助
土方歳三
柴誠一
126
18
7
5
4
2
1
163
陸軍奉行大鳥圭介
松平太郎
土方歳三
松岡四郎次郎
伊庭八郎
町田肇
89
11
8
6
1
1
116

 
 A 「新開調記」(『函館市史』史料編第2巻、「渡島国戦争心得日誌」より作成
 B 「蝦夷事情乗風日誌」『地域史研究はこだて』第3号、「一年の夢話」『薩摩藩海軍史』下巻より作成
 (注)「渡島国戦争心得日誌」では松平越中守には勢州桑名、牧野備後には越後長岡、板倉伊賀には備中松山、小笠原佐渡には肥前唐津とあるので、各桑名藩主松平定敬、長岡藩主牧野忠訓(会津で降伏し、箱館には来ていない)、松山藩主板倉勝静、唐津藩世子小笠原長行のことであり、彼らの家臣は新撰組隊士として脱走軍に加わっている。対馬章については、札幌の「秋野家文書」では榎本道章とあり、彼のフルネームは榎本対馬守道章(脱走軍の記録では榎本対馬)であるので、記録者が書き誤ったものと思われる。
 Aの入札結果は、「新開調記」、「渡島国戦争心得日誌」、「明治物語」、「明治太平記」(以上市立函館図書館蔵)、「渡島国戦争日誌」(道立図書館蔵)等に脱走軍の布告書などと共に収録されていたもので、脱走軍が公表を意図したもののようであり、「蝦夷事情乗風日誌」が神速丸乗組士官内藤清孝、「一年の夢話」が開陽艦長沢太郎左衛門が残した記録であるので、Bは海軍の内部資料的な入札結果なのかもしれない。ただ入札方法については、「我党ノ主長未夕定ラザルニ付、徳川家血胤ノ君定ル迄ノ処、合衆国ノ例二倣ヒ士官以上ノ者ヲシテ入札セシメ」(『説夢録』)、「諸方役々ノ長ヲ定ルニ依テ諸隊ヨリ入点ヲ以テ是ヲ定ントス」(「蝦夷事情乗風日誌」)等とある以外、具体的な方法についてはまったく伝えられていない。