千代ヶ岱の戦闘後、新政府軍海軍参謀は、『万国海律全書』贈呈の答礼として酒5樽を五稜郭へ送り、弁天岬台場の降伏および千代ヶ岱攻略を伝え、総攻撃開始の旨も通知した。このため郭内は動揺した。
榎本は、戦争の責任を一身に負い切腹を図るが彰義隊頭取大塚霍之丞らに制止され、衆議の結果、遂に降伏と決した。新政府軍陣営へ使者を派遣、翌朝榎本と松平が出頭する旨を伝えた。
17日朝、榎本と松平は亀田の斥候所へ出頭、亀田八幡宮裏手(越前大野藩隊長中村雅之進矩成手録「箱館日誌」)の会見場で海軍参謀増田虎之助、陸軍参謀黒田了介に会い、榎本、松平両人(会談に入る前に荒井郁之助、大鳥圭介も呼ばれる)の悔悟服罪とその他の者の寛典を嘆願した。増田と黒田は、謝罪降伏の実行箇条の提出を要求した。その夜、松平が、榎本、松平、荒井、大鳥の服罪(18日朝第6時より7時までに軍門に降伏)、五稜郭明渡(午後1時から2時までに兵士一同出郭)等の実行箇条を提出に赴いた。郭内は「決飲終夜悲歌慷慨満城蕭然」(「北州新話」『旧幕府』)となっていた。
18日朝7時、榎本以下松平、新井、大鳥の四4人は、全員の見送りをうけ、亀田会議所へ赴き、駕籠で箱館へ護送された。午後1時過ぎには、郭内の1000人余も箱館へ護送されて称名寺、実行寺等の寺院へ収容された。
次いで、軍監前田雅楽が柳河藩2小隊を率いて武器等の引取のため五稜郭へ入った。会計奉行榎本対馬らが応接に当たり、元込銃138、ピストル48、ミニエー銃など1600、長カノン9、その他の大砲25等の武器および米500俵余の兵糧一切の引渡しを終え(「北州新話」)、降伏式は滞りなく無事終了した。
またこの日、室蘭の開拓方へも斎藤辰吉(後の中野梧一と改名)らが使者となり恭順説得に向かい、開拓奉行沢太郎左衛門以下も降伏した。8か月前徳川家による蝦夷地開拓を旗印に箱館に入った脱走軍は、その蠢動を終えたのである。
5月19日、箱館府は運上所を裁判所代として諸事取り計らうことを布達(「明治物語」)、同時に南貞助名で各国領事へもその旨通知した。次いで21日には清水谷以下が大森浜へ出馬、招魂祭が挙行された。この日榎本釜次郎以下7人は船で青森へ護送され、青森から陸路東京へと送られたのである。また、称名寺などに収容されていた降伏人もこの日、船で青森、弘前へ護送され、この内静岡藩と仙台藩の家臣は10月に箱館へ戻され、翌3年4月まで弁天岬台場に収容されていた(明治3庚午年「箱館降伏人取締役所日誌」解説『地域史研究はこだて』第7号)。