明治11、12年の大火による街区改正

513 ~ 516 / 1505ページ
 明治11、12年の大火にともなう街区改正は、それまでの都市形態を大きく変え、その後の町名変更、地租改正の基礎をつくることになった。この点を強調すれば、この時点以降を近代的都市形成と位置づけることも可能だと考えられる。まず明治11年11月16日の鰪澗町から出火した火事は、13か町にまたがり954戸を焼失した。この被災地の範囲は開港以前のもっとも初期の市街地の広がりと重なると思われる(図4-13参照)。次に明治12年12月6日の大火は堀江町から出火し、33町の広い範囲にわたり2326戸を焼失した(『火災沿革史』)。この被災地の範囲は幕末期の市街地とほぼ重なり、その中にあって明治11年の大火の被災地が含まれていないことも知見できる(図4-14参照)。このことは、明治11年の大火における街区改正の有効性が、12年の大火において証明されたことを意味している。

図4-13 明治11年大火後の街区改正


図4-14 明治12年大火後の街区改正

 このような大火を生む当時の市街の様子について、鈴木少書記官が開拓長官の達しを要略するかたちで「函館市街ノ形勢タルヤ道路狭隘ニシテ家屋粗薄ナリ、此市街ヲシテ延焼スル勿ラシメンヲ欲シ其術ヲ求ムル豈得ヘケンヤ、抑当港ハ其初メ道路ヲ測理シテ地図ヲ量定シタル後家屋ヲ建造セシモノニ非ズ、来住スル者ノ自ラ撰ブニ任セ自然ニ街衢ヲ為シ漸次現今繁盛ヲ致シタルモノナレバ、道路家屋ノ格構屈曲疎密尤牙錯雑固ヨリ定規ナシ、一朝火災ノ変アルニ当テハ消防術ナク瞬間数町ニ延焼シ、動スレバ今回ノ如キ災害ヲ来シ、祖先ノ恩恵ト畢生ノ努力トニ因テ蓄積セシ財産モ一朝ノ火災ニ蕩然跡ナク遂ニ凍餓ニ泣ク者アリ、実ニ憂問ニ堪エサルナリ」(明治11年「函館往復」道文蔵)と述べている。つまり函館の市街地の形成は、札幌のように計画的ではないので雑然としており、大火の原因は「第一道路ノ狭隘ナリ、第二家屋ノ粗薄ナリ」の2点が指摘されている。
 このため街区改正の主眼は道路整備と耐火家屋の奨励を中心にすすめられることになった。具体的には明治11年の街区改正では「一、弁天町大町等ノ如キ大道ハ道幅十間以上トシ一直線ヲ要ス 一、山ノ手ヨリ大通ヲ横断シ海岸ニ至ル通路ハ幅十間以上トシ、適宜ノ場所ヲ撰ヒ二町或ハ三町毎ニ開通シ裏通リ及横町等ハ幅六間以上トシ倶ニ直線ヲ要ス 一、大通リ及山ノ手ヨリ海岸ニ出ル両傍ノ家屋ハ石造煉化石土蔵等不燃質ノ建築ヲ要シ、若シ資カ及難キ者ハ塗屋ニ建築セシムヘシ」(『開事』第2編)などの指導があった。その他特に山の手地区の家屋はロシアのウラジオストク風に模倣することをすすめている。それは黒田清隆開拓長官が同地へ出張しており、その影響を受けたためと考えられる(『初代渡辺孝平伝』)。

明治11年頃のウラジオストク港 北大図書館北方資料室蔵

 次に明治12年の街区改正では特に、道路改正の設計が市街の区画を十字形の直角の割方としたこと、防火線の設置、そして3か寺の移転などがあげられる。また実施はされなかったが、支庁改正係より道路改正委員へ旅人宿移転可否およびその場所についての諮問がなされていた(明治13年7月5日「函新」)。同年の改正の考え方として「今日既ニ焼失セル区域ノ路線ハ、未タ焼失セサル現在ノ市街ニ渉リ他日改正スヘキ模範ノ基線トナスモノナリ、故ニ図面ヲ作ルモ或ハ未来ヲ想像シテ予定スルニ至レルモノナリ」(明治12年「参考録」)ということを基本理念としていた。そしてこれらの道路改正を行うための具体的な施策として道路地の買上、土蔵・家屋の移転費支給、家屋改良費の貸付がなされており、表4-20のとおりである。その中にあって土蔵の移転数については表4-21のとおりである。
 
 表4-20 街区改正にともなう経費
  明治11年大火 明治12年大火
 
人民所有買上費
土蔵家屋移転費
測量費
道路改正土工費
廃道および官有地売払金
家屋改良費貸付
    計

40,823.000
9,362.000
 
10,512.339
10,745.000
16,465.000
87,907.339

85,737.530
25,203.805
2,255.510
120,477.633
23,674.475
12,537.300
269,886.253

 『開拓使事業報告』第2編より作成
 
 表4-21 大火による土蔵の移転
明治11年大火明治12年大火
弁天町 
大町
大黒町
神明町
仲町
西浜町
鍛冶町
16
11
7
3
1
1
1
大町
内澗町
船場町
堀江町
地蔵町
東浜
会所

上大工町
下大工町
不明
16
9
7
7
3
2
2
1
1
7

 明治11年「市街焼失跡道路改正書類」、明治12年「大火災関係書類」より作成