大火による社会的事象

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 これまでは、都市形成という面から、大火を契機とする街区改正とそれに関連する事項について述べてきた。つまり街区改正は都市景観をも大きく変えるばかりでなく、都市形態も規定する重要な要因であることを説明した。しかし、その大火と都市民との関連性についてはほとんどふれてこなかった。ここでは特に明治12年の大火と罹災民救助を中心にその他の社会的事象についてもふれることにする。
 明治12年の大火は、焼失戸数が全体の約4割にも及ぶ大きな被害であったばかりでなく、その焼失範囲がほとんど市街の中心部を占めていたという特色がある。そして、その理由によるものか借家の不足や物不足も影響してか、根室や小樽などへ移る人も多かった(明治13年7月7日「函新」)。この時期はこのような点と関連して、表4-22のように寄留籍が増え人口の流動性が高いことが知見できよう。そしてこの明治12年の大火による罹災窮民は当初、罹災戸数の3分の1程度と考えられていたが、結果的に救助金の分け前に預った者は、1644戸を数え、救助金が1月28日までで1万7296円94銭7厘となるため、1戸に付金10円50銭の割当となったのである(明治12年12月16日、同13年1月31日、同13年2月5日「函新」)。
 
表4-22 明治12年大火前後の戸数・人口
  本籍戸数寄留戸数本籍人口寄留人口
明治12.1.1
明治13.6.30
4,888
3,668
1,577
1,784
21,088
16,647
4,651
8,575

明治13年7月7日「函館新聞」より作成

 
 しかし、このような状況でありながら大きく人口減少を招かなかったのは、官民協同による敏速なる経済の統制にあったのではないかと思われる。つまり「米塩味噌畳薄縁繩莚釘酒漬物畳表琉球薪炭木材、右ノ品々買入方各所へ注文致置候間、不日着荷次第豊川町常備倉搆内ニ於テ払下候条此旨予メ広告候也」(明治12年12月14日「函新」)や「米酒味噌醤油炭材木板畳類、右物品内澗町渡辺熊四郎三菱会社函館支社支配人船本龍之輔第四十四銀行頭取岩橋徹輔三名ニテ、宮城県下石ノ巻ニ於テ買入無運賃ニテ兵庫丸ヨリ輸入元価ニテ罹災人民へ払下ノ儀願出候条常備倉搆内ニテ過日広告ノ物品ト同ク払下候条此段広告候也」(明治12年12月16日「函新」)とあるように、開拓使を中心とする原価直販による物価高騰の抑制により、罹災民救助を可能にしたのである。
 函館新聞によれば当時の相場について「米価其他トモ出火前ヨリ過分ノ値上リニハ無之、相当ノ相場ハ本文ノ通ナレトモ小売等ニテハ今一層高価ニ売買ノ模様」(明治12年12月14日「函新」)と解説しているとおり、開拓使の物価統制の成果がここに示唆されていよう。この開拓使による原価直販は「客歳十二月六日大火災ノ際救助ノ為メ諸物品豊川町常備倉構内ニ於テ払下居候処追々各所ヨリ諸物品モ輸入相成先以需要品ニ差支ナキ趣ニ付、本月十五日限リ右構内ニテ払下ノ儀相止メ候条此旨予テ広告ス」(明治13年4月8日「函新」)とあるように4月15日をもって終了することになった。
 また、罹災窮民の立退場として学校や寺など10か所が定められた。この他に山ノ上町神明社焼跡へ官費にて土方人足左官大工など寄留籍の職人の小屋が建設されたり、弁天町慈善有志者による旧高龍寺跡へ小屋の建設がなされた。(明治12年12月14日「函新」)
 開拓使による原価販売は木材にも及び、「当支局管内ハ勿論根室及青森等各町ニ注文、以来追々着港可相成、乃凡拾三万三千三百石余に有之」(前掲「大火災関係書類」)と罹災民援助のため木材の買入をした。しかし、類焼市街からの概算によれば40万石の木材が必要となり、2か年計画で家屋の落成を見込んでいた。この時期の家屋新築調によれば明治13年723件、同14年467件、同15年322件、同16年582件となり4か年の合計は2094件の新築の届出があったことになる。(明治18年「照準参考録」)
 さて、開拓使による経済の統制という面で、第1段階の物品販売が正常化にむかいつつある頃、次の第2段階として労働賃金の抑制について知見できる。つまり市街の街区改正工事と家屋の建築による労働の需要に対して低賃金労働者の移入と市中労賃指導によって労賃の高騰を防ごうとするものである。
 労働者移入の件については、官吏の出張前において秋田、青森両県に労働者の賃金および需給の状況などの照会の依頼をしている。これに対して青森県においては「御焼失以来陸続キ(ママ)職工ノ者御地ヘ出働、且客歳ヨリ諸色ノ高価等ニテ非常ニ雇賃騰貴ニ及(中略)本県使役ニモ差支候様ノ都合ニ候」という状況であった。
 これを受けて、7等高橋鉄三郎が秋田県に出張することになり当初土方夫300人・石工30人の募集を予定していた。そして、この出張についての目的が人夫雇入約定心得の第1条の「人夫ノ合格選定ノ上一日ノ給金三拾銭以下ヲ目的トシテ雇入約定ノ事」にみられるように低賃金労働力の移入にあったことが理解できる。この労働力の募集は高橋鉄三郎の出張中に「先以テ人夫百五十名募集可致」という電報による変更があったものの結果的に雇賃1日金20銭により167名が採用された(明治13年「秋田人夫関係書類」)。このような募集数の半減は道路改正にともなう「緊要ナラサルハ務テ省略スベシ」(『開事』第2編)という開拓使の姿勢を反映しているものなのかは判然としない。
 また、市中労賃指導については「火災以後大工左官等に拘はらず都て諸職人の賃料が非常に上り一般に困じて居たるが一昨日より交る交る諸職人を区役所へお呼出になりて色々お諭しが有りました」(明治13年4月2日「函新」)という実態であった。
 このように官民一体による経済の統制が市中生活の混乱を抑制し都市機能の再興を早める結果となった。また後でふれることになるが明治10年代の都市整備もこの体制によって自治色の強い展開をもたらしたことが函館の都市形成の中で特色ある時期といえよう。