出港入港の旅人は、前に述べし如く、旧来検査あり、明治四年二月、其上陸場を海関所南傍の一箇所と定め、他の海岸より乗降するを禁じ、士農工商修験に至る迄之を点検す。五年四月に至りて旅人の点検を廃す。但し外国船に塔じ出入する者は旧に依る。尚ほ入港船舶便乗人並に物品等陸揚の節に限り、其船舶出発地の船改所、或は其筋役所より交付したる出帆免状登記の員数と相違なきや否や調査の為め、海関所脇上陸場より上陸せしめ一々点検したりしが、斯くては旅人不便なるを以て、七年七月以降、沖改を終りたる人員は、定めの場所何れより上陸するも差支なき旨、函館支庁より布達せり |
明治初期の函館港
その場所が東浜上陸所で東浜桟橋といわれた。この桟橋は、木造の長さ5間幅3間の三方階段であった。その後「地方費で施設されたものはこれも木造で、延長90尺幅28尺3寸、高さ地下2尺の埋込みを除いて水底から16尺、干潮面下約9尺、満潮面下約11尺6寸で、橋頭前面の幅14尺3寸左右両側幅22尺の昇降階段を設け、夜間は橋頭に灯火を点じて、専ら旅客交通の便を図った」(『函館海運史』)のである。もっとも幕府は、文久元(1861)年6月、和人の蝦夷地(即ちアイヌ人の地)移住を奨励するため役人が在勤して出入りの者を検査していた山越内関門を撤廃し、旅人の通行を自由にしている。しかし、それは和人の東蝦夷地占領を公認するという意義の方がずっと強い。
安政4(1857)年4月、幕府は箱館並びに箱館付近諸村から蝦夷地に赴く行商人については沖の口番所の改めを廃止、ただ商人書付に村役人の奥印を押してもらって山越内番所に提出することとし、また砂原、鷲木から室蘭に渡海する者は室蘭番所に提出することとして、役銭は一切免除する布達を出している(梅木通徳『北海道交通史』)が、これもその意味である。「蝦夷地鎖閉の旧弊御改之」(同前布達)はその意味で、そのための「蝦夷地通行之者便利」案とみるべきである。一般的な通行の自由化原則が、これらの措置によって宣明にされたとみるべきではなかろう。やはり明治7年に、単に函館の行商人、商人保護のためでなく、一般的通行自由化原則が宣言されたとみるべきであろう。ただし、それは北海道全体が和人地と蝦夷地に区分され、和人の支配は和人地に限るという松前藩の政策(幕府承認済み)を破棄し、全北海道を明治政府の一元的支配下に置くという植民地化政策強行の表現ということもできる。