明治以前の倉庫

599 ~ 600 / 1505ページ
 昭和16年に刊行され、同45年に改定版が出された日本倉庫協会の『日本倉庫業史』決定版を見ると、日本の倉庫は上古の屯倉、田荘、神地の倉庫から始まる。当初の天皇家、貴族の貢物、武器の貯蔵庫から始まり、中世土倉として、商人資本の成立の基礎を形成した。そのあとを受けて、太平の世となった徳川幕府300年の平和は、国内商業の発達を促す基本条件となった。政治的軍事的理由から、馬車による大量遠距離輸送を禁止された近世の封建制時代、商業は大阪、江戸京都(淀川による河川交通)を中心とした小型和船による海運による外はなかった。寛永12(1635)年外国船の入港、貿易を長崎、平戸に限り日本人の海外渡航、帰国を禁止し、500石以上の船舶製造禁止したいわゆる鎖国令は、中世以来発展しつつあった外国貿易、したがって外航海運の発展を根こそぎもぎとってしまった。また同年武家諸法度を改定し、参勤交代制を確立した。全国300に近い諸侯は、江戸屋敷を置き、毎年、金と米その他生活物資を江戸に送る必要に迫られた。『日本倉庫業史』は、大阪と江戸の倉屋敷を重大視し、それらを倉庫の中心と認めたのは当然であろう。
 いずれにしても、それら倉庫は近世、大いに発展したのであり、その蔵入貨物は、多くは米穀であった。封建制下、最大の収奪貨物は米であったからである。やがて、その封建領主(徳川氏も含め)の収奪した米は、回船という和船に乗せられて大阪に集められ商人に売られた。これら商人は問屋と呼ばれ、ギルド制によって固く結束する。問屋は概ね倉庫を持っており、海運業、商業を兼営していた。大阪の問屋は金融業を兼営し、近世中期以降、武士への金融業が主業となるものが出現する。
 同書によれば近世の営業用倉庫は、問屋の付属倉庫と両替屋の倉庫とにわかれる。問屋江戸時代、分化して仕入問屋、委託問屋、加工問屋に分れる。臨港地点には、回船問屋(または船問屋、船舶を有し回漕業を営む)があり、これが、売買問屋を兼ね倉庫を持つことがあった。「尚お又港の船頭、商人等を宿せしめ諸用を弁じたり、船賃、船舶に関し諸船の手続を行う小宿、附宿、船宿等と称する業者もあり、船宿の内には、倉庫を有つ者もあった」。倉庫は大部分土蔵で、問屋は預り物に対して証文を発行した。口銭は概ね有期一パーセントであった。両替屋は江戸時代発達した金融機関である。