このように種々の建言のなか、北海道の海産物貿易の商権をわが国に奪回しようとする具体的な動きが生じてきた。5年9月に開拓使用達である榎本六兵衛、小野善助、田中次郎左衛門、林留右衛門、島田八郎右衛門、栖原角兵衛、渡辺治郎左衛門、笠野熊吉、木村万平、林徳左衛門の10名が「北海道産物支那輸出国直輸ノ方法」を定めて清国への直輸出をすべく出願した。願書の前文で、北海道の産物の多くは清国輸出に適したものであり、特に昆布や煎海鼠、干鮑の輸出総量は莫大であり、国内産出物としては最大のものである。しかしこれまでは外国人の手に渡り、彼らはそれを清国に転売して利益をあげているが、国民にとっては利するところ少ない。しかし前年日清通商条規が締結されたので、相互に通商するに支障がなくなったとして、次のような方法によって直輸出に取り組むとしている。この方法書をみると木村万平の仕法書と共通するものがあるが、まず(1)結社同盟して、追々上海等へ開店すること、(2)当面は北海道産物は長崎や横浜、神戸等に保管し、またはそれぞれの港で売却し、最終的には北海道から清国各港へ直輸する、(3)開拓使の税品は北海道の相場で払い下げること、委託の場合は5分の手数料を下付すること、(4)諸商人の貨物を委託し手数料は同じく5分受領すること、(5)前記の場合は荷為替を取り扱い元金高の7割を貸し付け、利息月1歩とすること、(6)貿易上の損益は開拓使には関係しないこと、などの内容からなっている。開拓使は用達のこの試みが成功すれば一般の商業者も同じく直輸出をてがけることにもなり、国益になるとともに北海道の富にもつながるもので許可したいという伺いを正院に提出した。翌月27日にこの伺いは許可された(明治5年「禀裁録」道文蔵)。
実はこの出願をする直前に榎本六兵衛と小野善助の連名で開拓使に願書を提出している。それによれば清国むけの昆布、煎海鼠、干鮑、鹿皮、干鯣などを函館で買い入れ、上海に輸送・販売するために函館に用達社中から手代を派遣したい、そのためにも開拓使から北海道の各産地にその旨の通知を出すことを希望する、また当面は長崎に出店して清国の相場や商業習慣などを研究し、追々上海にも出店を設けたい、というものであった(明治5年「取裁録」道文蔵)。この出願書が端緒となり前に述べた申請となったのであろう。これは開拓使が政府の許可をとるために大義名分としてこの点に触れるように指示したのではないか。用達は許可を受けると同年11月に東京の江戸橋南詰錦町に出店を設けた(『開事』)。これは東京の用達商会の輸出部門を担当する出店という意味なのであろう。ここで輸出機関として清国直輸商会という呼称を函館において取るが、実態的にはあくまで開拓使用達の共同事業という位置付けがなされた。