内国船の場合は乗客、貨物輸送の取次業務(その獲得も含む)は問屋商人が行っていたが、外国商船の場合はどうであったろうか。開拓使函館支庁の外務掛・運上掛が外国船の出入りを記録した「入港退帆記」には、外国船の船名をはじめ乗組員名や積載貨物・乗客数などの種々の事項が記載されており、明治4年のものと明治5年のものとが残っている。それによれば外国商船の入港にさいして各商船別に函館居留のブラキストン社、ハウル社、デュース社などが《引受人》として記載されている。この引受人がどのような機能を有しているのかは明記されていないためはっきりしたことは分からないが、荷受問屋のような役割を担っていたのであろう。また彼ら居留商人は外国商船に対して函館の問屋商人に伍して貨客の斡旋も扱っていたのではないか。これとは別に同じ函館のシュルター&シュトラント商会が船舶仲買業という職業についているので彼らもこのころは代理業務をやっていたのであろう(1872年『Japan Herald Directory』)。
ところで太平洋郵船会社の取り次ぎ業務はどうであったろうか。太平洋郵船会社の函館出張所が設置される以前にはイギリスのハウル社がその業務を代行している(明治4年「入港退帆記」)。ところが業務が多忙になってきたためか、明治5秋にE・H・ベロースが派遣され富岡町(現弥生町)のアメリカ領事館領事邸横に出張所を設置した。そして同年11月以降取り次ぎ業務はハウル社からベロースの出張所に引き継がれた。函館駐在イギリス領事は明治5年に関する報告で「太平洋郵船会社は五年中に函館に出張所を設置した。このことで同社汽船への積み荷は増加するであろう」と述べて沿岸輸送において太平洋郵船会社が他の外国商船に対して優位を占めるであろうと強調している。領事の予測通り翌6年になると入港船の噸数は前年より1万トン余増加し、太平洋郵船会社船が全体の実に85パーセントも占めている。太平洋郵船会社はこのように出張所を設け、さらに榊富右衛門(元厚岸の場所請負人)や小宿商人の納城藤兵衛らと集荷に関する約定書を取りかわし、一層業務の拡大を図っている(明治5年「願届編冊」国立史料館蔵)。
太平洋郵船会社は明治8年に入ると横浜・函館の定期航路を停止した。それは三菱会社が同航路に定期便を始めたことで太平洋郵船会社が従来のように太平洋沿岸の航路を独占することができなくなり、営業基盤の急激な低減をもたらしたからである。また横浜・上海間も三菱との競争が展開されていたが、同社はアメリカ本国からの航海補助金を打ち切られ、日本沿岸の航路の将来も三菱の隆盛のため可能性が少ないと判断し日本政府の斡旋により船舶や航路権を三菱へ譲渡した。そしてかつて太平洋郵船会社の汽船として就航していた大型汽船は三菱の汽船に姿を変えて沿岸や国際線に就航することになった。