海上保険は横浜の外国商館でその扱いがあり、函館でもイギリスの保険会社の代理業務を扱う居留外国商人がいたが、わが国で民間会社で保険事業を始めたのは明治12年の東京海上保険会社からであった(石井研堂『明治事物起源』)。実質的に官による事業とはいえ次に述べる保任社の海上保険事業は実にこれよりも数年さかのぼることになる。
明治5年9月ころ開拓使は木村万平に貸与している北海丸に「積荷物ノ非常請合」すなわち海上保険をつけるため、その取扱を開拓使用達に命じようとした。これに対して用達一同は「私共ニオヒテハ行届不申トノ見込多分ニ御座候」と消極的であって、その非常請合業務は開拓使が取り扱い、出納業務のみは東京と函館で取り扱うと回答した。開拓使は木村万平の元組回漕会社に北海丸を貸与して函館・東京・大阪の航路を開くように命じていたが、この航路を補強する意味で海上保険を始めようとしたのである(「開公」5731)。
当初は抵抗を示した用達であったが、開拓使は間もなく「北海丸積荷物難破請負並為替御貸付金方法」を定めさせて基本金として10万円を下付して実際の取扱について検討させた。そして明治5年10月開拓使の用達榎本六兵衛、小野又次郎、田中次郎左衛門、島田八郎左衛門、林留右衛門、栖原角兵衛、渡辺治右衛門、笠野熊吉、木村万平、林徳左衛門の10名に仕方書や事業の見積り書などを添付した願書を提出させた。この願書を受けた開拓使は太政官に対して次のような伺いを提出した(「開公」5531)。
北海航路は海難事故も多くこの年の3月にも兵部省の汽船東京丸が尻岸内沖合で沈没するなど民心への不安も大きい。開拓使は北海道の開拓を目的に海運の便を図るために船舶の購入を進めている。このたび付属船北海丸を購入し、船長や航海士などに熟練した外国人を雇い、函館・東京・大阪間に海上保険を付けた定期航路を開設し、あわせて為替業務も行う。そしてその運営は開拓使の用達に行わせ、その準備金として定額金から10万円を準備金として支出したいという内容であったが、太政官はこれを許可した。
ついで翌6年1月に「創立規約」(保任社の組織規則・全22条)、「定則」(業務の内容・全34条)を定めて保任社の骨格が出来た。また用達社中では規約や定則に基づいた20条に及ぶ細則ともいうべき「申合定款」を定めた。「創立規約」によれば保任社の総頭取には榎本、頭取に小野、田中の2名、その他のものが副頭取という体制であった。また運転資金は開拓使から無利子で下付される準備基本金10万円と社中積金5000円(用達1人につき年500円出資)の2本立てとする、営業年限は8年間とする、「危険請負及び荷為替或は慥なる引当を以て貸金をなすを本務とす可し」との規定などからなっている。また「定則」では難破請負と濡損請負に関する保険料や保証額、荷為替等の規定をしている。
木村万平は明治5年に外国貿易に関して建言しているが、清国貿易について海上保険をつけて輸出する方法を提唱し、そのために横浜の外国商社とも協議していた。また明治6年の在函イギリス領事は保任社が函館・上海の定期便を7年から始めようとしており、そのために横浜の外国保険会社が同社の船舶に外国人の船長をのせるという条件で保険のリスクを負うことになったと報告している。こういったことから保任社の設立に関しては開拓使が木村の建言を入れてまず国内便において海上保険を実施しようとしたものと思われる。また北海丸は営業開始後の5月に木村万平から保任社・運漕社の両社へ貸与されることになった。
さて同月に保任社が開業すると、翌4月に東京から函館の差配方として赤井善平と安達栄蔵の両名が派遣されてきた。そして5月に函館支社が内澗町と東浜町の廻漕方木村万平出張店において開業したが、彼らは函館着任後ただちに函館支庁におもむき開業届けを出し、同時にその旨市中に布達されるように願い出ている(「諸局往復留」道文蔵)。なおこの時同時に運漕社と開拓使御用達商会の函館支社の開業願いが提出されている。ちなみに保任社は「海上難破請負東京箱館大坂右三所定往復」、運漕社は「荷物取扱」、そして用達商会は「清国直輸」とそれぞれの担当が明らかにされている。これらはいずれも開拓使用達の下部機関であった。
北海丸は毎月18日に東京を出帆、21日に函館に到着という定期便として開始されたが、それではこの海上保険の利用度はどうであったろうか。「旧開拓使会計書類・保任社御用留」(道文蔵)に東京保任社の営業成績が採録されている。実質的に営業を開始した6年5月から同年12月までの分であるが、利子・請負収入は1999円で諸支出が1450円となり利益金はわずか548円であった。当初の予測した利用率からみればはるかに低いものであり北海丸の貸与料すら上納できないありさまであった。
翌7年4月に保任社から開拓使に1通の書類が提出された。それには6年下期の北海丸の貸与料を上納したが「会計相立兼社中一同心痛」の状態である。それにまた「函館大坂ノ間本船一艘ノ航海ニテハ運輸ノ便利全備ノ場ニ至リ兼候」という状況でもあり玄武丸を北海丸と同じ条件で貸与されるように嘆願している。これに対して開拓使の東京出張所では「本文云々ノ申立ハ不都合ニ付当年ノ計算モ亦不足ナラバ嘆願ニ随ヒ御詮議ノ品モ可有之」との判断を示している。また函館・東京間の航路はアメリカの太平洋郵船会社の便が海上保険を実施していたが保険料は保任社のよりは廉価であったし、三菱商会や郵便蒸気船会社は保任社より低利の荷為替を行っているといった事情もあった(同前)。このような保任社の体制に対して開拓使は経営の継続を危ぶんだのであろうか、同月30日黒田次官から保任社に対して突然、同社の廃止と北海丸および基本金10万円の返納を命じた。保任社解散後の同年5月に河村海軍少輔から黒田へ譲渡申し入れがあり(「開公」5600)、北海丸は同年7月海軍省へ譲渡された。こうして海上保険の実施という画期的な試みは海運業本体の不振もあって廃止されてしまったのである。