航路と海事習慣

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 ところで函館の汽船船主の所有汽船の運航状況はどのようなものであったろうか。表7-24に35年の主要航路別の航海数や輸送状況を掲げた。渡辺熊四郎のように大津航路を受命しているものは除いたが、これらは道内はもちろん、全国各地にその営業航路を展開している。表には掲げていないが、遠く門司まで運航している事例も散見される。そしてその大半が不定期航路であったことに函館の汽船海運の特徴があった。また函館の汽船は小型のものが多く、表には掲載しなかったが、近海航路に頻繁に就航している。というのも日本郵船は道内では主要港との往復であるのに対して、これらの汽船はもっとキメ細かく航路網をはって就航していた。こうした機能は従前は和船が担っていたものをこれらの小型汽船が担当するようになったためであった。
 
 表7-24 函館の汽船船主と主要航路別営業実態(明治35年)
船主氏名
船名
回数
旅客
貨物
船主氏名
船名
回数
旅客
貨物
【日高】
永野弥平
吉田庄作
酒谷長一郎
西出孫左衛門
能登善吉
板村助右衛門
服部半左衛門
 
 
【釧路・厚岸
西出孫左衛門
 
能登善吉
 
函館汽船(株)
服部半左衛門
 
平出喜三郎 
 
北海産業合資
【室蘭】
永野弥平
西出孫左衛門
石垣隈太郎
 
渡辺熊四郎
渡辺政次郎
藤野四郎兵衛
能登善吉
 
 
函館汽船(株)
平出喜三郎 
【小樽】
吉田庄作
酒沢岸太郎
 
石垣隈太郎
沢口庄助
田村与七
藤野四郎兵衛
能登善吉
 
函館汽船(株)
 
板村助右衛門
服部半左衛門
 
平出喜三郎 
 
北海産業合資
【薩吟嗹島】
永野弥平
酒沢岸太郎
西出孫左衛門
石垣隈太郎
沢口庄助
 
渡辺政次郎
能登善吉
函館汽船(株)
 
板村助右衛門
服部半左衛門
平出喜三郎 
北海産業合資
 
瀬田川丸
第2松前丸
豊漁丸
北海丸
帝浄丸
渡島
北光丸
平穏丸
回陽丸
 
北海丸
福垂丸
函館丸
万歳丸
北門丸
東光丸
平穏丸
浦嶋丸
錦旗丸
筑紫丸
 
瀬田川丸
福重丸
石山丸
矯龍九
日の丸
平安丸
玄洋丸
帝浄丸
福島丸
函館丸
北雄丸
錦旗丸
 
第2松前丸
貫効丸
千年丸
矯龍丸
幸明丸
恵美須丸
玄洋丸
函館丸
福島丸
北門丸
都丸
渡島
北光丸
回陽丸
浦嶋丸
錦旗丸
筑紫丸
 
瀬田川丸
千年丸
福重丸
矯龍丸
幸明丸
勢至丸
平安丸
函館丸
北門丸
北雄丸
渡島
平穏丸
錦旗丸
筑紫丸
 
1
56
32
8
77
7
1
1
5
 
3
4
10
90
3
5
1
1
2
3
 
1
13
1
10
7
5
2
2
2
3
1
22
 
15
1
8
6
17
3
5
2
1
2
2
19
10
40
13
45
2
 
8
5
10
11
10
2
11
7
16
2
1
1
6
4

5
218
145
70
916
6
6
9
34
 
59
79
297
3,254
36
35
35
85
11
6
 
 
27
 
55
16
1
 
5
 
 
102
35
 
307
3
341
6
1,098
67
43
5
 
400
11
352
20
661
464
19
 
 
219
30
490
344
370
48
331
342
1,345
308
 
4
355
22

40
l,221
1,439
109
3,555
423
80
40
149
 
88
341
1,586
10,617
2,750
440
150
100
694
1,430
 
330
1,764
 
1,210
838
1,890
330
87
137
380
 
7,850
 
230
20
580
469
1,347
190
700
120
57
 
260
931
589
1,395
565
1,255
2,050
 
717
748
2,070
1,816
1,490
 240
2,082
842
3,166
306
14
37
1,450
1,730
【青森】
永野弥平
吉田庄作
工藤嘉七
酒沢岸太郎
酒谷長一郎
西出孫左衛門
石垣隈太郎
藤野四郎兵衛
能登善吉
 
函館汽船(株)
 
 
板村助右衛門
服部半左衛門
 
 
平出喜三郎 
 
沢口庄助
【東京】
永野弥平
渡辺政次郎
北海産業合資
【大阪】
石垣隈太郎
沢口庄助
 
藤野四郎兵衛
函館汽船(株)
服部半左衛門
酒田
吉田庄作
西出孫左衛門
函館汽船(株)
 
服部半左衛門
平出喜三郎 
【秋田】
永野弥平
酒沢岸太郎
石垣隈太郎
沢口庄助
 
田村与七
能登善吉
 
板村助右衛門
服部半左衛門
 
 
新潟
永野弥平
西出孫左衛門
石垣隈太郎
沢口庄助
田村与七
渡辺政治郎
能登善吉
服部半左衛門
 
北海産業合資
 
瀬田川丸
第2松前丸
茅部
千年丸
豊漁丸
福重丸
矯龍丸
玄洋丸
函館丸
福島丸
都丸
北門丸
北雄丸
渡島
東光丸
回陽丸
魁益丸
浦嶋丸
綿旗丸
勢至丸
 
瀬田川丸
平安丸
筑紫丸
 
矯龍丸
幸明丸
勢至丸
玄洋丸
北門丸
北雄丸
北光丸
 
第2松前丸
北海丸
北門丸
回陽丸
錦旗丸
 
瀬田川丸
千年丸
矯龍丸
幸明丸
勢至丸
恵比須丸
函館丸
帝浄丸
渡島
平穏丸
東光丸
北光丸
 
瀬田川丸
福重丸
矯龍丸
勢至丸
恵比須丸
平安丸
函館丸
北光丸
東光丸
筑紫丸
 
1
2
5
1
32
4
4
2
3
19
4
2
2
17
3
6
16
1
2
22
 
3
2
1
 
3
1
1
2
5
2
1
 
5
1
1
64
6
 
5
4
6
2
1
2
2
4
4
6
3
13
 
3
1
4
8
11
6
4
44
17
1

10
36
 
37
895
67
13
26
2
225
111
82
27
22
62
66
282
20
41
847
 
22
1
 
 
4
8
6
12
415
6
 
 
100
1
 
373
17
 
146
204
1
 
22
 
10
70
 
24
16
48
 
198
4
360
120
123
312
60
325
133

50
45
80
200
1,333
347
357
 
110
498
637
33
200
728
96
78
417
15
165
1,164
 
190
300
450
 
295
223
50
440
855
279
85
 
117
12
158
1,737
1,026
 
161
159
472
100
70
190
160
140
287
350
245
581
 
83
125
345
922
715
583
372
3,337
1,575

 『第2回航通運輪ニ関スル報告』により作成
 
 30年代になると樺太、沿海州方面の漁期には函館の船は内航船から外国貿易船に資格を変更して露領の漁場に行くものが多くなる。漁夫や経営品を運搬し、漁獲物を運搬する。こういった用途に広く函館の船が使われている(33年6月15日「樽新」)。また不定期航路の就航以外に貸船する場合もあった。貸船の一例をあげてみよう。30年における函館と択捉島間の雇入運賃として同年5月の福重丸(260トン)1日80円、6月の北門丸(430トン)1航海3300円、7月の千島丸(170トン)1日80円、8月の恵比須丸(168トン)1日100円となっている(30年12月19日「樽新」)。運賃契約については1船全体の輸送契約はほとんどなく、あくまで貨物の重量あるいは個数による運賃輸送が一般的であった。こうした動きは明治前期には自己荷物の輸送という比重が高かったのに対して他人荷物の輸送のケースが増加したと考えられる。
 おわりに函館港の20年代の海事習慣を取り上げてみよう。これは内閣法典調査会の照会に対して函館商工会が回答したものであり、西洋形帆船の取り扱いも含んだものである。その主なものを述べておく。
 まず、船主と乗組員の関係については、船主と船長との関係は主従関係のもの、あるいは独立関係と両例があるものの判然とはしていない。また一般の乗組員は船長が半年ごとに雇用する場合が多く、従って船主はその点に関しては詳細を知らないという場合もある。また船長で富力のあるものは存在するかとの問いには極く少数の事例に限定されるとしている。船主と乗組員との債務関係は航海中に船長の不注意により荷物をぬらしたり紛失した場合は船主は荷主に対して責任を負うが、船長の技術上の過失により難破した時は船主は荷主に対しての責任は負わない。この場合は船主が船損、荷主が荷損となり、またたとえ船長に職務上の過失があっても船長はその責任を負うことはない。貨物輸送と船客輸送の比重とその利益率については、概して船客輸送のほうが利益が多い。しかしそれは船体の構造と不可分の関係にある。つまり効率的な構造になっている船舶では貨物のほうが金高は大きい。また船舶の売買は比較的多い。これは貨物輸送の需給関係により運賃低落や船主間の過当競争などにより倒産といった事態を来し、その結果船舶を手放すことがあったようである。(『函館商工会沿革誌』)。