刻昆布の製造は享保6(1721)年に大阪で創始され、文政年間(1818~1829)には販路が拡張して大阪についで江戸でも開業された。函館では寛永年間に製造が開始されたとされている。また、安政元(1854)年に高田源左衛門(高田屋3代目)が大阪生まれの刻昆布職人を雇入れて、古築島町(高田屋埋立地)で製造場を開いたのが元祖(大正6年5月25日「函館新聞」)ともいわれている。源左衛門の死後は別家の高田六三郎が受け継いでいる。 刻昆布の製法は葉昆布を煮たのち、乾燥圧縮(寒気のため12月中旬より2月末まで休業)して鉋を以て削り、再び乾燥してできあがった製品50斤を木箱に詰めて梱包縄がけするのであるが、輸出先の清国では緑色の製品を好むため青葉昆布で製造した上級品は清国へ、赤葉まじり昆布で製造した製品は国内向けで九州・越後・羽前へ販売されていた。製造高の8、9割が清国輸出であるため、着色および色止めにさまざまな方法が講じられ、明治期で3度におよぶ取締まりを受けている。 維新後、輸出昆布価格の騰貴があって、函館港よりの刻昆布輸出は、数量・金額ともに逐年上昇したが、その明治7年10月に、前述の高田六三郎、小畑定兵衛、深瀬嘉右衛門、白鳥幡次郎の4名が青銅屑で刻昆布を着色したのは条例違反として、罰金75銭宛を申渡されている。そして、また11年2月に高田六三郎、升谷友七、福崎清兵衛の3名が銅線を以て渋付をしたとして製品は取上げ、焼きすてとなり、罰金75銭が申付けられている。このうち、高田六三郎の製品はイギリス商人ブラキストン社中の中国人と約定の品であったがため、その処分をめぐってイギリス領事と開拓使外事係との間に折衝が行われている。高田六三郎は11年に廃業した。 一方で明治10年に印の小林重吉が旧漁業請負地の三石郡姨布村の「村端ニ刻昆布ノ製造場ヲ設ケ函館ヨリ数十ノ男女ヲ傭入レ、現ニ三十余人ヲ使役シテ其業ニ従事」(広業商会『北海道紀行』)しはじめたが、製品の品質良好で清国人の嗜好に適したため、その要請で改めの烙印を荷造箱に押したという盛況であった。の製造所は14年9月に東川町に移転するが、11年以降、函館の刻昆布製造額は表9-7のように順調に伸び、18年の状況を「独リ昆布製造所ハ年ヲ逐ツテ盛大ニ赴カントスルノ色アリ」(明治19年「統計書類」『河野文庫』道図蔵)と述べている。なお、3軒の業者合計の経営収支を表9-8で示したが、売上高対利益率は30.8パーセントと高い。 また、明治11年の刻昆布製造業者福崎清兵衛(10年の製造高が15万斤であるから、製造金額約4500円と推定される)は、本章第4節(3 漁業組織と函館資本)で明治12年、西富内鰊漁場主の福崎清兵衛と同一人物であり、刻昆布製造業の収益を鰊漁場の仕込みに投入したものであろう。当時の資本の動きを知る材料である。 |
表9-7 刻昆布製造価額
年 次 | 製 造 価 額 |
明治 12 13 14 15 16 17 18 | 円 4,200 5,250 9,140 13,800 17,000 ? 26,628 |
『函館支庁統計概表』『函館県統計書』河野文庫・明治19年「統計書類」より作成
表9-8 昆布製造所の収支 明治18年
製造金額 製造数量 製造経費 内訳 原料価 職工給料 人夫給料 薪購入費 緑生購入費 機械修繕費 職工飯料 利益 | 26,628円 887,600斤 18,424円 9,150 2,160 4,280 452.10 221.10 360 1,440 8,204 |
原料昆布 焚釜数 機械彗 職工 人夫 男 〃 女 | 3,170石 5釜 24組 24人 19人 55人 |
工場位置・東川、西川、鶴岡町各1か所
河野文庫・明治19年「統計書類」より引用