まず、日本船について9年と12年の状況をみよう。
表9-60より、船舶の定繋港、つまり船主の住所別の隻数をみると、函館、新潟、青森、石川が多いが、明治9年や12年では、これらの日本形船舶は漁場主の所有船ではなく雇船であり、恐らく仕込主の船舶が多いものと思われる。表9-61で積石数別隻数をみると、9年では500石以上も多いが、4年後の12年になると投網数に応じて、400石前後を2隻使用する漁場主がふえたことを示している。
表9-60 定繋港別日本形隻数
「函館税関史料」および「地崎文書」より作成
表9-61 積石数別日本形隻数
明治 9 | 明治 12 | |
200石未満 300石未満 400石未満 500石未満 500石以上 | 3 7 6 1 5 | 1 7 9 5 3 |
合計 | 22 | 25 |
噸数別西洋形隻数
明治 9 | 明治 12 | |
50噸未満 50噸以上 | 1 0 | 2 1 |
合 計 | 1 | 3 |
「函館税関史料」および「地崎文書」より作成
こうした船の規模については、9年の函館税関史料に「右漁業ニ渡航致シ候船ノ義ハ、尋常漁船ト違ヒ何レモ二、三百石以上ノ船舶ニテ、且ツ年々莫大ノ利益モ之レ有ル趣ニ付キ」とあって、小さな漁船とは違うから、樺太航行大和船には輸入税を課すべしと上申していることがみえる。表9-62は明治26年当時と推定されるが、50トン未満の日本形(合の子船)と西洋形が多く、汽船は使用され始めたばかりである。30年代は汽船が主力となるが、樺太漁業のために特に建造されたものはなく、300トン内外が多かった。また、船舶がなくては成立しない漁業ではあったが、船の種類をとわず難破船の多かったことも指摘しておかねばならない。漁網については本章第2節3項でのべてあるが、シスカ(ホロナイ河)内の漁場では主として引網を使用して1日3回は曳いたといわれる。海建網になると角網が使用された。角網1か統につき、鮭鱒では15~20名、鰊網では20~25名の漁夫を要した。
次に前記の船舶に分乗して渡航した漁夫の出身地を表9-63でみると、北海道、青森、新潟、石川、岩手、秋田、富山県が多いが、西日本にも広く分布していた。
表9-62 舶形別・噸数別隻数
日本形 | 西洋形 | 汽 船 | |
50トン以下 50トン~100トン迄 100トン~400トン迄 | 16 22 2 | 15 1 | 4 |
合 計 | 40 | 16 | 4 |
『大日本水産会報』第163号より引用
明治26年と推定される
表9-63 出身地別漁夫数(明治28年)
北海道 青 森 新 潟 石 川 岩 手 秋 田 富 山 香 川 山 形 | 700 365 242 234 130 115 87 33 24 | 福 島 福 井 長 崎 愛 媛 広 島 東 京 茨 城 その他 合 計 | 23 23 18 17 15 14 13 147 2,200 |
『大日本水産会報』第163号より引用
漁夫は固定給(明治28年頃で、一般漁夫平均17~18円。船頭はこの約3倍。)のほかに、賞与(九一と称して、収獲高の11分の1か、あるいは20分の1の人数割当)が支給された。また、雇船の水夫に対しては、航海手当(船中用捨)として、上記の九一が支給されたし、漁夫と共に漁撈作業に從事した水夫には収獲高の5パーセントの手当が支給された。
また、船舶には様々な仕込物資が積み込まれるが、その一例をあげよう。
明治12年、鶴岡町福崎清兵衛の西富内の鰊漁場へ渡航した弁天町相馬哲平所有の日本形船諏訪丸(310石積)には、水夫8人、漁夫9人のほかは次の物資が搭載されている。鯡網2筒、鯡釜16枚、碇7丁、塩400俵、莚300束、縄石合50丸、玄米100俵、白米20俵、味噌5樽、越後酒10樽、焼酎5筒、樺木皮110丸、葉莨5、其他雑物16。同じく、12年、船見町木田長右衛門のタラヰカ鮭・鱒漁場へ渡航した青森大町の大村鶴松所有の日本形船永福丸(412石積)には、水夫9人、乗組漁夫等37人のほかに、網13個、綱10丸、藁縄3丸、実子縄3丸、絵線1個、高波綱1個、シナ縄1個、苧1箱、釘1樽、柿渋1樽、船板6枚、塩1100俵、白米80俵、味噌4樽、醤油4樽、越後酒20樽、大根漬2樽、縮入1振が搭載されていた。