稲荷社の廃絶の意味

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 この「稲荷社」の廃絶という問題は、一見する限りでは、ごく一般的な宗教事象のように思われるが、実は北海道の近世~近代宗教史を考える場合、見捨て難い大きな意味を持っているのである。その意味は何か。それを探るひとつの手立てとして、近世末期の探検家である松浦武四郎の探査記録より作製した次の〈「場所」における宗教施設〉の一覧(表11-1)を示したい。
 
 表11-1 「場所」に於ける宗教施設
東エゾ地
弘化2(1845)年
「初航蝦夷日誌
安政3(1856)年
「竹四郎廻浦日記」
文久3(1863)年
「東蝦夷日誌
ヤムクシナイ
ヲシャマンベ
アブタ
ウス
モロラン
シラヲヒ
ユウフツ
サル
ニイカップ
シヅナイ
ミツイシ
ウラカハ
シャマニ
ホロイヅミ
ビロウ
シラヌカ
クスリ
アツケシ
 
子モロ
諏訪社、稲荷、弁天
弁天社 
弁天社 
弁天社、善光寺、金毘羅、観音堂
弁天社 
弁天社 
鎮守社、地蔵堂弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天社、稲荷社
弁天社 
等?院、鎮守社、観音堂、弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天社、稲荷
国泰寺、弁天社 
 
弁天社
諏訪社、阿弥陀堂、稲荷
観音堂、稲荷社
稲荷社
弁天、蛭子、善光寺
地蔵堂、稲荷、大黒、蛭子
弁天、阿弥陀堂 
弁天社(地蔵堂を合殿)
義経大明神、弁天、天満、金毘羅、蛭子
鎮守の社
金毘羅、稲荷、弁天
 
弁天社 
等澍院、鋳守社、船玉明神、観音稲荷
住吉社、稲荷
観音堂、稲荷社
観音堂、岩船明神、三十番神、稲荷
弁天、稲荷、阿閑社
国泰寺、神明社、稲荷、八大竜王
弁天
稲荷、金毘羅社合殿
諏訪、稲荷、阿弥陀庵
観音、稲荷
稲荷、蛭子社
弁天、蛭子、善光寺
弁天社 
弁天、阿弥陀堂、塩釜社
不動堂、稲荷、弁天社 
〈同上〉
弁天社 
金毘羅、稲荷弁天、弁天社 
弁天社 
弁天、稲荷
等?院、観音堂、稲荷、船玉明神
住吉社、稲荷、弁天社 
観音堂、稲荷社
〈同上〉
弁天、稲荷、阿閑社
 
 
西エゾ地
弘化2(1845)年
「再航蝦夷日誌
安政3(1856)年
「竹四郎廻浦日記」
文久3(1863)年
「西蝦夷日誌
クトウ
フトロ
セタナイ
シマコマキ
スツツ
ウタシツ
イソヤ
イワナイ
フルウ
シャコタソ
ビクニ
フルビラ
ヨイチ
ヲショロ
タカシマ
ヲクルナイ
石カリ
アツタ
ハママシケ
マシケ
ルヽモップ
トママイ
テシホ
リイシリ
ソウヤ
シヲナイ
モソベツ
シャリ
アハシリ
弁天社 
稲荷、戌社、弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天社、稲荷
弁天社 
弁天社 
弁天社、妙亀法鮫大明神
弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天社、稲荷社
弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天、稲荷社
弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天、稲荷社
稲荷、弁天、地蔵堂 
弁天、稲荷
弁天、苅場権現、稲荷、竜神社
弁天、稲荷
弁天、稲荷
弁天、稲荷
弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天、稲荷社
弁天、稲荷
弁天社地蔵堂 
弁天、稲荷、妙亀法鮫、竜神社
 
 
 
弁天、稲荷、伊勢の社
弁天社 
弁天社 
 
弁天、稲荷
 
弁天
船玉社、稲荷、観音堂
船玉社、稲荷
弁天、稲荷社
稲荷、弁天、地蔵堂 
弁天、稲荷
〈同上〉
弁天、稲荷
弁天、稲荷
弁天、稲荷
弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天社 
弁天、稲荷、戌社
稲荷社
弁天社地蔵堂 
弁天、妙亀法鮫大明神
弁天、稲荷
弁天、稲荷、地蔵堂 
弁天社 
弁天、稲荷、伊雑社
弁天社 
 
 
 
 
 

 
 これによれば、東西蝦夷地の各「場所」には、初め弁天社が建立され、年代が進むにつれ稲荷社が造営されていっている。弁天と稲荷の両社は、恐らく「場所」における航行安全と豊漁祈願の神々として漁師たちの信宗を集めていたのであろう。
 こうした「場所」ごとに祀られていた近世期以来の神々のうち、金毘羅宮・弁天社は前引した開拓使が行なった教部省への報告書類の中で明確に廃絶すべき神として規定されていた。この報告書類の中には具体名は見えないが、江差正覚院の場合も、また菊池重賢が実施した社寺取調の場合にも廃止を求められていたのに稲荷社があった。
 神仏分離政策によって、金毘羅宮と弁天社が取り潰され、今また稲荷社までもが廃絶されるならば、これは北海道宗教史における明瞭なる近世の全否定になり、そこには近世から近代への宗教史における連続面が存在しなかったことを証明することになる。この宗教史における近世の否定の営みは、既述した函館湯倉神社に生起していた明治4年の神官-村民による土着信仰の声の黙否にも通底するものである。
 しからば、その稲荷社は菊池重賢の取調べの通り、廃止になったのであろうか。答えは否である。
 明治5年の菊池重賢の調査を踏まえて、明治7年に開拓使官員山田少主典が行った再調査たる『開拓使本庁管内神社改正調査』の中で、例えば、先の小樽高島村の稲荷社は、「稲荷社 神璽外ニ仏体一可有候ヘハ、能吟味致候得共無之候、是ハ存シテヨロシク」という具合に存続が認められることとなったのである。高島村のこの稲荷社の他にも、明治7年の再調査により存続を容認された稲荷社は数多く存する。これを、北海道宗教史における近世の近代的再生ないしは近世から近代への連続的移行と言わずして、何と言おう。
 いうなれば、近世期の稲荷社は、神仏分離により一度廃止されたのであるが、明治7年に及んで蘇生したのである。