幕末の外国人医師たち

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 函館には、安政後期から外国人医師の渡来があり、少なからず地域の住民や医師に影響を与えた。彼らの活動が病院の建設にも大きな刺激となったと思われるので、少しその経緯をおってみたい。まずロシアの場合、在函領事団の中に海軍省の医師がいた。最初の赴任者はアルブレヒトで安政5(1858)年から文久3(1863)年まで滞在した。任務は領事館付属の病院で、寄港した船の傷病乗組員を治療することにあった。また安政5年から万延元(1860)年にかけてアメリカ人医師べ-ツが滞在していた。この両者の西洋医学に、地域住民から大なる期待が寄せられたことは、「安政六未年願書并歎願書」(『函館市史』史料編第1巻)を見るとよくわかる。当時、住民は勝手に外国人医師の診察を受けられなかったから、まず奉行に診療願いを出すわけで、それがこの史料中に綴られているのである。安政6年1月から約半年の間に、70件ほどの願書が出されている。その1つを例にあげてみよう。
 
             乍恐以書付奉願上候
私義、小商渡世罷在候処、三ヶ年以前巳年より腫物相煩候に付
 田沢春堂 山口玄栄 深瀬洋春 菅野季硯 岡嶋道専
右の通治療相頼種々薬用仕候得共、今以て全快不仕何共難渋至極に罷在候処、内澗町喜兵衛手代寅之助と申もの長々足病相煩、此度浄玄寺止宿アメリカ医者相頼薬用仕候処、此節全快の様子に御座候間、随て奉願上候も恐多奉存候得共、私義も前書医者相頼薬用申受度奉存候間、可相成御儀被為在候はば、格別の以御燐愍治療被仰付被下度、此段以書付奉願上候、已上
             未正月            内澗町                
願人 与八郎
                御奉行様                                                

 
 この例にも見られるように、従来の日本人医師の治療では治癒しないため、という理由で願書を出す者がほとんどであった。この中の「腫物」という症状は黴(ばい)毒かとも思われるが、同じく黴毒をさす「湿」という表現とともに願書の20パーセント弱を占めている。しかし一番多い病気は限病で願書の35パーセントを占めている。眼病や黴毒が多かったのは函館に限ったことではなく、ほぼ同時期の神奈川の宣教医へボンの記したところでも、同じ傾向にあったことがわかる(高谷道男『ヘボン』)。このような外国人医師の診察に対し、当初箱館奉行は比較的寛容な態度をとっていた。だが安政6年末に老中から、今後外国人医師から治療を受けるのは止めさせるようにという指示(『幕外』27-114)があったため、住民はそれ以降治療を受けられなくなったようである。とするとベーツは万延元年正月に神奈川へ去ったが、その理由は、住民の治療が禁止され生計が成り立たなくなったからかもしれない。なおベーツは横浜で医師として開業しており、その広告を1860年6月23日号の「The North-China Herald」(横浜開港資料館蔵)に載せている。その他、安政6年暮れからアメリカ人医師オーエンという人物が居留していたが(自一千八百五十八年至同五十九年「米国来翰編冊」道文蔵)、治療行為を行った記録はない。やはりこれも先の指示によるものであろうと考えられる。在住斉藤三平のところに出入りし、焼酎の製造などにかかわったりしていたが、文久2年に帰国した(文久2戌年正月より12月迄「各国書翰留 魯亜」道文蔵)。一方、住民の治療は禁じたものの、日本人医師が外国人医師に伝習を受けることは認められたため、市中の医師などがロシア医師に師事した。特にアルブレヒトの後任のザレンスキーは黴毒治療に特技を有したといわれ、深瀬洋春永井玄栄下山仙庵、高橋元済、八角宗積、横山恭哉、下山瑞庵、滝野衝雲と多くが学んでいる(谷澤尚一「幕末・箱館ロシア病院に関連する史料」『地域史研究はこだて』第2号)。また安政6年末に来函したフランス人宣教師、カションも活動の1つとして施薬を行い、フランスから医師を来函させることを企てたが、実現しなかった(函館元町カトリック教会『函館とカトリック』)。