ロシア病院は安政5年に亀田万年橋の近くに建てられ、ロシア軍艦の傷病乗組員の療養に供されていたが、文久元年に火事で焼失した(文久元酉年7月ヨリ12月迄「応接書上留」)。その後、ロシアは同国領事館の隣に再建を企てるが、日本人の治療もするという風聞を耳にした地元の医師たちがこれに大いに触発された。幕府の医官であった栗本匏庵は、蝦夷地在住として当時函館にいたが、万延元年6月、森養竹あての書簡にその時の状況を書いている。「魯夷病院ヲ建テ、夷医ヲ迎へ、日本人ニ施薬セン事ヲ議ス、既ニ経営ニ取掛ラントス、実ニ憤懣ニ不堪、無余儀建白シ、町医ヲ相手テ急ニ施薬所ヲ取建ル、唯、大城炎後、官費無所出、故ニ有志ニ啼哭シテ醵金ス、走事ハ家貲蕩然、真ニ無一物ナレトモ、更ニ不悔、当月中ニハ経営略成、七月尽ニハ規模モ少シハ定ルベシ、……医庠抔ノ事、旬日ノ間ニ事ヲ決シ、迂緩俗評ヲ待ニ不逞、滅法流ニ取掛ル、併シ兎モ角モ成功ニハ至ルベシ」(「蝦夷通信」)。これを読むと、ロシア病院に対抗するため急きょ、「施薬所」の設立を決し、奔走している様子がわかる。また「医痒」すなわち医学校などの事も即断のもと、後先を考えずに取り掛かかるという意欲がみえる。栗本と同じく在住であった塩田順庵とが中心になり万延元年冬には上棟式にこぎつけたが、風雪のため倒壊し、実際に落成したのは翌文久元年春だった。ロシア病院の完成は文久3年夏頃であったから、2年ほど先んじて開設できたのである。御役所からの1500両はあったものの、奉行所の諸役人、市中の医師、商人、遊女屋の積金などを以て建設したことは当時にあって、画期的なことであろう。なおこの施設の名称は文久2年の帳簿である「廉分帳」の表紙では「医学所兼病院」とあり、「施薬所」という名称は使われていない。一般には「箱館医学所」といわれたようだ。なおロシア病院の方は慶応2(1866)年に焼失し、その後再建されることはなかった。
この医学所には診察所、調薬室、講堂などがあり200坪以上の建物であった。組織としては「頭取」という名称で下山仙庵、田沢春堂、深瀬洋春、永井玄栄、柏倉忠粛を代表者として擁し、その下に準世話役として7名の者を配した。そして順番に交代で患者の診療にあたったのである。『開拓使事業報告』によれば、「医学講習規則ヲ定メ且ツ函館所轄開業医取締規則ヲ設ケ、各地方医ヲ業トスル者ノ品行ヲ糺シ、印鑑ヲ交付ス」とあるので、衛生に関する行政的な役割も担っていたことがわかる。また「専ラ娼妓黴(ばい)毒治療及貧民ノ治療ヲ掌握セシ」めたので、患者が大いに増えたとある。この娼妓の黴毒治療費は建設費として寄付された積金と相殺された。また、講堂では市中の総数40人にも満たない漢方医・洋医たちに、講義が行われたとあって、まさに医学所兼病院の名にふさわしい。しかしながらこの医学所も、政治体制の変革で新政府のものとなるが、以降の変遷は阿部龍夫『市立函館病院百年史』を参考におってみることにする。