北海道の地質調査は、明治五(一八七二)年十一月に開拓使がアメリカ人の地質学者、鉱物学者であったライマンとモンローに調査を依頼したことから進められた。地質や鉱物資源の調査が、鉱業や諸産業開発促進の意図に基づいていたことはいうまでもないが、この調査は明治八年に終り、北海道地質測量図が完成した。この地質図によると、亀田も調査範囲に入っているようであるが空白部分が多い。このころは正確な地形図もなかった状態であった。地形測量は開拓使が明治六年にアメリカ人のワッスンに全道の三角測量を命じており、これは一部しか完成しなかったが「北海道三角測量 明治八年箱館近傍ニ設ケタル助基線ノ位置ヲ示セル図」がある。助基線の三角測量基点は大野町と、かって亀田であった田家町の大称寺境内(礎石は北海道開拓記念館所蔵)に設けられたが、この図には亀田の山や河川などがよく表現されている。
亀田の地質が調査、報告されたのは昭和八年になってからで、福富忠男が「北海道有用鉱物調査報文 渡島支庁管内亀田郡大部・茅部郡一部」-北海道工業試験場-に発表している。これによると、亀田半島の地質や鉱物などについても調査されているが、亀田に関する記事は少なく、地史に関するものでは袴腰岳など渡島山脈を形成する基盤は古生代の岩類で、庄司山、蝦夷松山、雁皮山、蓬揃山は火山岩の寄生的山塊が多く、褶曲(しゅうきょく)する山峰が全く見られないと述べている。このころ、地質や鉱物を発見したり調べたりする傾向があったが、その反面、地質構造を調査して現在の北海道がどのような地史から成立しているかが研究されるようになっていた。渡島半島の地質構造や地史に積極的に取組んだのは長尾巧、佐々保雄らであった。昭和九年ならびにそれ以降に発表した地質学雑誌の「北海道西南部の新生代層と最近の地史」によると黒松内、森、濁川、福島、松前地域を調査しているが、これは渡島半島の地質研究の基礎になった報告で、地質がどのような構造で形成したかなどが述べられ、北海道の西南部は、石狩低地帯を境にして北海道中央部と著しい差異があり、西南部は東北日本の延長と見なされると報告している。道中央部の日高山脈や神威古潭山地には新生代第三紀(約七千万年前)のような古い地層があるが、道西南部にはこの古い地層がなく、そのあとの新第三紀(約三、五〇〇万年前)も、道中央部と堆(たい)積層が異なって、むしろ青森、秋田、山形、新潟などの地質区に属しているという。地質学的には地殼を構成する地質から石狩低地帯を境にして成立が異なって、渡島半島は本州と同じ基盤から成立していたのである。報告には地域的な標準層序が設けられているが、道西南部は何回かの造山運動や地殼変動を起している。地質の構造は山地や河川上流の岩石あるいは岩層の堆積状態などによって調べられるのであるが、長尾・佐々らの標準層序は、古い時代から、中新世では最下部に福山統、中・下部に訓縫統、上部に八雲統、鮮新世では下部に黒松内統、上部に瀬棚統、洪積世では下部に石倉噴出物層、沖積世では下部に駒ヶ岳噴出物層となっている。亀田の地史については報告がないので、参考として「北海道南部地質表」(別表)を作製した。