これまで述べてきたように、西桔梗の函館圏流通センター用地内の遺跡調査によって、亀田の先史時代から歴史時代に至るいくつかの新事実が解明され、新たな課題を提起したが、考古学と歴史学の接点となる平安時代以降の足跡は明らかではない。北海道では奈良時代から平安時代、鎌倉時代まで、本州の後期古墳文化の影響を受けた擦文(さつもん)文化という本道特有の文化の時代になる。この時代は、住居構造は古墳時代後半のものと類似するが、土器は土師器に似た擦文土器が使用され、鉄器の普及により石器が姿を消してしまう。更に本州では群集墳となって小規模な古墳が築造されるのに対し、本道では初期にわずかな墳丘を持つ北海道式古墳ができるにとどまる。これは本州においては農業を経済基盤としていたのに対し、わずかな畑作と、漁労と狩猟の生活の段階から脱却できなかった社会的背景によるものであろう。
本州との関係である程度明らかなのは、鎌倉時代後半から室町時代にかけての和人の移住である。『新羅之記録』などの文献に出てくるこの時代の和人の館(たて)の存在と、それから出土する遺物が和人移住の証左として挙げられるが、中でも有名なのは称名寺境内にある「貞治の碑」である。また、近年志海苔町で発見された古銭と甕(かめ)も室町時代の初期のものである。かなりの和人が道南に往来していた。亀田にも移住したとは断定できないが、西桔梗C遺跡とD遺跡の間の地点で、室町時代に珠洲窯(すずがま)で造られた擂鉢(すりばち)と壷が出土している。この地点は沢に近い丘陵上で、中世遺構が残っているのでないかと期待したが、確認はできなかった。この種の陶磁器はどこにでもあるものではなく、これまでの出土地は、歴史上の記録に残っている館の近くか、墓地などに限られているので、遺構発見の可能性はないわけではない。陶磁器は破損しているが、出土品からすれば、あるいは西桔梗にも室町時代に和人が移住していた可能性も生じた。あえて関連付けると、市立函館博物館に七重浜出土の壷が収納されているが、これは窯印のある実形の壷で、砂丘から出土したと伝えられているが、箱館の河野加賀右衛門尉政通、志濃里館の小林太郎左衛門尉良景、茂別館の下国安東八郎式部大輔家政らの豪族が居住しはじめたころに、七重浜や西桔梗にも和人が定住していたことも考えられる。室町時代の珠洲窯の陶磁器は、志海苔町や知内町涌元でも出土し、青森県下北でも出土している。石川県能登半島にある珠洲窯の陶磁器が北海道に渡来しているのは、室町時代になって日本海の海上交通路が確立し、北方の海産物供給に欠くことのできないものとなったことと、東北地方北部や北海道南部の地方豪族が、さけやこんぶ、毛皮などの交易に関係していたためと見ることができる。