松前藩は慶長年間(一五九六―一六一四)に亀田番所を設置したようであるが、このときは奉行を置かず、亀田の地侍である白鳥孫三郎を検断に任じ、和人地と蝦夷地出入の者の取締り及び亀田周辺地域の政務を行わせていたようである。
その後、奉行・代官・下代・名主などを任命するようになり、さらに松前藩の行政組織の確立にともない年寄・小頭その他が定められるようになった。
『逢坂氏日記』(函館市史史料編第一巻)によれば「一、先年検断孫左衛門方へ、万端の支配被二仰付一候処、其後為二御奉行一。」と記されており、亀田番所にはじめて奉行が置かれた年代はつまびらかではないが、検断が任ぜられその後に奉行が置かれた。元禄二(一六八九)年に職を辞した手代木惣右衛門は、八代目の亀田奉行であるといわれており、前記『逢坂氏日記』の記述順序から考え、初代の亀田奉行は今井平七であったものと思われる。