ペリー遠征記のさし絵 市立函館図書館蔵
安政元(一八五四)年三月、神奈川条約の締結により箱館港は翌二年三月から開港される運びとなり、この予備調査のためペリー艦隊が箱館へ入港することを幕府は事前に松前藩に達した。この突然の達しを受けた松前藩は大いに驚き、直ちに箱館へ応接掛として家老の松前勘解由、用人遠藤又左衛門らを派遣し、四月五日箱館市在に対してペリー艦隊入港に関する次のような布達を行った(必要部分のみ略記)。
触 書
先頃武州神奈川沖え渡来の亜墨利加船、箱館湊見置度旨申立有レ之候由、右に付ては近々入津の程も難レ計候。依て心得向兼て申渡候間、急度相守可レ申候。
一 異国船渡来の節浜辺へ罷出、或は屋根上等へ登り見物致候儀、堅く不二相成一旨、兼て被二仰出一有レ之一同心得居候筈に候得とも、亜墨利加船の儀は別段之儀抔と心得違いたし、見物に出候ては以の外の事に候。若右様不埓の者有レ之候に於ては申開の有無に不レ拘、取押、入牢可二申付一候。
一 亜墨利加船滞留中は、人夫相勤候ものゝ外、商用たりとも小船にて乗出し候義は勿論、海辺へ罷出、徘徊いたし候儀、堅く御制止被二仰出一候。若心得違の者於レ有レ之は仮令異船へ近寄不レ申候とも見当次第取押入牢可二申付一候。
一 亜墨利加船下田へ相越候節も、上陸の儀決て不二相成一旨、従二公辺一被二仰渡一有レ之、彼等も上陸不レ致趣申立候由に候得共、下田滞船中は度々上陸いたし、尤も乱妨は不レ致候得とも、所々徘徊いたし、猥に人家へ立入り、食物等乞求め、或は婦女子に目を掛け、小児を愛し、寺院抔には長座いたし候由相聞え候得ば、当湊へ入船の上は上陸も可レ致哉、一体亜墨利加の者共は婦人を目がけ其上慾心深く候由に候間、万一上陸の上は、不法の儀可レ有レ之哉も難レ計、殊に至て短気の生れ付にて、聊にても彼等の意にさからひ候得ば立腹致し候由、万々一右等の所より争端を開き候様の儀有レ之候ては、従二公辺一厚く被二仰達一候御趣意に相振れ、恐入事に候間、如何様の儀有レ之候とも、穏に申宥め、さからひ申間敷候。右に付被二仰出一候通、町々婦人、小児の儀は大野、市の渡最寄在々にて、親類身寄有レ之向は、早々引移可レ申筈に候得とも、左候節は数多の御百姓格別混雑いたし、不二一方一難渋に至候間、立退の儀は御猶予被二成下一候はば老若に不レ拘、婦人共は一切外出不レ為レ致急度取締候様取計申度段、町年寄共申立の趣、無二余儀一相聞え候に付、願の通被二仰出一候条、銘々厚く心得、不束の儀無レ之様、厳敷可二申付一候。万一御手数の品出来候節は、重き御咎可レ被二仰付一候。
一 山背泊近辺、築島、桝形、其外亀田浜、七重浜等は場末にて、何分御不安堵にも有レ之、且人家も少く候得は、夜分抔密に上陸の程も難レ計候間、婦女子の分は老若とも不レ残、男子にても十二、三歳以下の者は、最寄山の手辺へ所縁を求め、近々の内早々為二立退一可レ申候。尤難渋の者えは、相応の御手当可レ被二下置一候間、町役人共より可二申立一候。
一 異船滞留中は、牛飼の者共、箱館市中並海岸辺の村方へ、牛にて諸荷物運送致間敷候は勿論、浜辺近き野山へ放し候儀、堅く不二相成一候。
一 炭、薪、青物類は日用品の事故、近在より馬にて附出し候義は不レ苦候得共、異人共馬の蔭を見掛候はゞ、直様村方まで附纒ひ、如何の儀有レ之候ては不レ宜候に付、異人共上陸の様子承り候はゞ馬士並在々の者共は途中より早々引返し可レ申、又用済にて帰村の人馬も、同様相心得、申達候迄は市中に控居可レ申候。
というように記されており、異国船の見物、箱館港の船舶の出入、馬の箱館出入その他各種行事等の制限、禁止を松前藩から布達された箱館の人々は恐れ驚き、早速老人婦女子を大野、七重、神山、赤川方面へ避難させ、店を閉じ、息を殺しているような状態であった。
一方駄馬により野菜、薪、炭を箱館市中へ運び、収入を得ていた赤川、神山、鍛冶その他諸村の人々は、この布達を見、収入源を絶たれるため、これからどうなるかと非常に不安な日々を送っていた。
このような様子の所に、四月十五日米国軍艦マセドニアン、ヴァンダリア、サウザンプトンの三艦が入港し、続いて四月二十一日、ペリー提督乗艦のポーハタン及びミシシッピーが入港して来た。
合計五隻のうち、あとの二隻の軍艦は蒸気艦であり、木造帆走の弁財船より見なれぬ人々にとっては驚きと脅威であり、緊張の日々であった。
『亜墨利加一条写』には
(五月)三日 前日同 前四日同断
先月廿二日より此四日迄アメリカ人両三人位宛赤川、上山、鍛冶村辺え罷出、村方一統誠に当惑いたし候。然共乱妨ケ間鋪義毛頭無レ之、其頃大野辺へ徘徊いたし度趣アメリカ被レ申候趣ニて同村心配いたし、箱館表より引越の方々隠場等拵候由、文月辺は有川村え網引のもの共罷出候ニ付、川伝ヘニ彼等参り候との噂ニて、隠場心配いたし候趣。右アメリカニ付、箱館付在々六ケ場所ニ至迄大騒キいたし候。向後は貧乏神より大禁物候。
と記されており、このように住民の緊張の最中、ゆうゆうと二、三人のグループで赤川、上山、鍛冶、大野方面へと探索を試みるアメリカ人があり、村人をはじめ、かねて箱館から逃れて来た老人、婦女子は大いに肝を冷やしたことであろう。「誠に当惑」、「貧乏神より大禁物」は、当時の人々の心をよく物語っている。