触 書
文政四(一八二一)巳年十二月七日、松前蝦夷地一円御復古被二仰出一候
儀は霊照院(松前章広)様多年被レ遊二御心願一候御儀ニ付、被レ徹二御心
魂一、難レ有思召、彼是の為二御冥加一金壱万両被レ成二御献上一
度旨御願相済、天保二(一八三一)卯年十月六日無二御滞一御上金相済候
得共、右は容易の御儀無レ之、御勝手向御取締第一の儀ニ
付、同年四月より当戌(一八三八)五月迄、中七ヶ年御城内向厳敷御倹
約被二仰出一候処、去ル申年(天保七)は近頃稀成凶作ニて奥州筋国々
凌方差支、死亡のもの夥敷有レ之候得共、当御領分中窮民
共え御相応の御救被レ下候ニ付、不毛の国土にて死亡のもの
壱人も無レ之、右は畢竟被二仰出一候御倹約の御趣意相貫キ、
御城内は不レ及レ申、御役所向御取締行届候故の儀、如何程
御仁恵の思召被レ為レ在候ても御不如意ニては御行届難レ被レ
成、別て近年御物入打続キ候御時節ニ候得共、殿様御幼年
ニ被レ為レ在、未タ御目見不レ被レ為レ済、右ニ付ては御奉公
の御廉も無二御座一、公儀御厚恩の儀、朝暮被二思召一、今般西御
丸御普請ニ付、御相当の御上金被レ成二御願一、御用途被レ成二
御差加一度との御心願有レ之、多分は御成就可レ被レ成哉、夫
ニ付ては弥御倹約不レ被レ成候ては此以後御勝手向の御障ニ
可二相成一候ニ付、去ル卯年被二仰出一候御趣意の通、御城内
を始、諸役所向当戌(天保九・一八三八)七月より来ル巳(弘化二・一八四五)六月迄、中七ヶ年、厳
重ニ御倹約被二仰出一候条、御役向は勿論御家中一統并軽キ
もの共迄銘々身分の儀ニ付今度改て被二仰出一候御ヶ条の趣
急度相守可レ申候事。
文政巳年御領分一円被レ成二御復古一候後、御取締の儀は第
一、翌午(五)年同酉(八)年御倹約被二仰出一候御触面の通、御家中一
統軽キ御扶持人まで平日の心懸専一ニ候間、其内ニも衣食
住は分限を不レ越、質素節倹の儀ニ心ヲ配り、聊たりとも奢
がましき儀不レ可レ致、惣じて無益の費は衣食住の三つより
種々の物好等ニ移り安く、増長致し候てはおのづから不如
意ト可二相成一、左候ては平日通の勤向は勿論、非常の用向も
難レ勤、様々差支可レ申、尤常々如何程倹素を心懸候ては(も)不
慮の儀等打続、段々不如意ニ相成候儀は不レ及二是非一候得
共、家事不取締ニて万端差支候儀は畢竟不覚悟故の儀と心
得、常々無二油断一心懸可レ申候事。
一 衣服并諸道具類は不レ及レ申、吉凶ニ付音信贈答諸振舞、
普請向等、人々其程を考、無益の費無レ之様可レ致、別て
仏事の儀も近来手数相懸り候様ニ相聞、如何の事ニ候得
共、右は先祖并代々の年回忌日ヲ相弔申候儀ニ候得ば、
人々分限ニ応し致二執行一候儀は不レ苦、常々質素節倹を心
懸候は全く夫等の儀ニ差支無レ之ためニ候得共、成丈身分
不相当の儀ニ不レ可レ及候事。
一 町人、百性共の儀は其程々を相守り、奢りがましき儀
致間敷候。近頃ニ至て町々の婦人衣類等花美ニ相成、前
々度々被二仰出一候御倹約の御趣意ニ不二相叶一、不埓の至ニ
候。別て当年は御巡見使御下向ニ付、当所并在々御旅宿、
道橋普請等迄品々手数相懸り、右は郷村割合の儀ニは候
得共、町人、百姓の身帯(代カ)響キ可レ申候間、弥質素を専要ニ
心懸、家業無二油断一相励可レ申、若等閑ニ相心得、聊ニて
も奢がましき儀於レ有レ之は糺(の欠カ)上急度咎可二申付一候。
右の趣被二仰出一候間、早々触出可レ被レ申候。如レ斯相触候て
も分限不相応奢侈致候もの及二見聞一候ハヽ不二捨置一、早々
可レ被二申達一候。
戌七月
右の趣被二仰出一候間、此段相触候。
戌八月
別紙御触面の通此度被二仰出一候間、早々順達可レ被二相触一
候。已上
戌八月六日
在 方 掛
亀田村より鍛次村 上山村 赤川村 夫より
上湯川村 下湯川村 志苔村 銭亀澤村 石崎村
夫より大川村より峠下村 一ノ渡村 本郷迄
鳥渡(チヨツト)申上候。然ば御懸り様より粟弐斗、稗弐俵鳥の餌料差
上可レ申様廻文至(到)来仕候処、何方え込置候哉、目(見)当り不レ申
候。依て別紙差送申候。何卒書面の粟、稗無二間違一差出し
可レ被レ申様被二仰付一候間、此段申上候。以上
八月八日 亀田村
名 主 所
鍛次村 上山村
赤川村 御名主所
金壱朱取調方ニ付、先頃中、白鳥友次郎其村々え罷越、右
有金の分封印致し置候。依て右金壱朱追々御取替ニ相成候
間、早々持参差出候様取斗可レ被レ申候。
一 兼て拝借御米代金早々上納いたし可レ被レ申候。已上
八月九日 在 方 掛
亀田村より赤川村迄 夫より峠下村 一ノ渡村
大野村 一本木郷 右村々役人中
一 籾 粟 一ヶ村ニて弐斗宛
一 同 稗 一ヶ村ニて四斗宛
右の通御入用ニ付御買上ニ相成候。以上
追々附送り候様頼入度候。以上
一 峠下村え馬廻文壱封
青毛女馬弐才 同所御百性弥右衛門方有由
廻達有レ之候。
但し藤山より石崎村迄
覚
一 当十四日御用秣附馬割合左の通
馬三疋 彦七 同七疋 友七
同四疋 石五郎 同三疋 長左衛門
同三疋 平蔵 同拾疋 六三郎
同拾弐疋 重五郎 同五疋 平七
同三疋 三四郎 同三疋 嘉右衛門
同弐拾疋 六郎 同廿弐疋 三太郎
同拾壱疋
惣数百六疋
右の通村役立合の数相定申候。以上
八月十一日
一 御用状壱封 猿田幾右衛門様出
赤川村行
八月十一日
鳥渡申上候申上(ママ)候。然ば明日より十五日御神業ニ御座候得
ば御人足拾人斗御出し可レ被レ下候。以上
八月十三日 亀田村
大野迄
一 以二御用状一申達候。然ば此度江戸登せ付、金壱朱今日
昼頃差出し不レ申候ては通用不二相成一候間、先日相改候分
早々差出し可レ申候。此段申達候。以上
八月十五日
在方掛様
亀田村 鍛冶村 上山村 赤川村役人中
一 廻書ヲ以申進候。然ば明十七日馬回御役人様御当着の
由、御先触至来仕候。例年の通早々御詰可レ被レ成候。以
上
八月十七日 亀田村
名 主 所
鍛次村
上山村 御名主所
赤川村
触 書
此度中山道下諏訪、赤坂両宿困窮ニ付、人馬賃銭割増左の
通可二請取一旨申渡。 中 山 道
下 諏 訪 宿
去巳七月より当戌六月迄中 赤 坂 宿
五ヶ年の間人馬賃銭四割五
分増申付置候処、猶又当戌
七月より来卯五月迄中(五脱カ)ヶ年
の間是迄の通り四割五分増
右割増銭申渡間、可レ被レ得二御意一候。
右の趣、向々え可レ被二相触一候。
戌五月
此度中山道和田宿外七ヶ宿困窮ニ付、人馬賃銭割増左の通
可二請取一旨申渡 中 山 道
和 田 宿
去巳六月より当戌五月迄中 塩 尻 宿
五ヶ年の間人馬賃銭四割五 福 嶋 宿
分増申付置候処、猶又当戌 上 松 宿
六月来卯五月迄中五ヶ年の 須 原 宿
間是迄の通四割五分増 野 尻 宿
妻 籠 宿
馬 籠 宿
右割増銭申渡間、可レ被レ得二其意一候。
右の趣向々え可レ被二相触一候。
戌六月
右の趣今般江戸表より申来候間、不レ洩様可レ被二相触一候。
戌八月
右の通被二仰出一候間、早々順達相触可レ被レ申候。以上
八月
触 書
大判の儀、享保の度吹替後年数相立、焼失等ニて減少致し
候ニ付、此度吹増被二仰付一候間、新古取交無レ滞可レ致二通
用一候。
右の趣可レ被二相触一候。
六月
右の趣今般江戸表より申来候間、不レ洩様向々え可レ被二相
触一候。
戌八月
右の通被二仰出一候間、村々不レ洩様、三通とも早々順達可レ
致候。以上
戌八月
在 方 掛
触 書
百姓、町人金銀の品相用候儀停止の旨、当閏四月中相触候
ニ付ては是迄百姓、町人共心得違等ニて所持いたし居候分
は別段咎の不レ及二沙汰一候間、其品早々金銀座え為二差出一
可レ申、左(差カ・重複)出可レ申、左候ハヽ座方ニおゐて相当の代金下ヶ
遣候筈ニ候間、少しも不二隠置一差出、尤金銀座手遠の場所
は領主、地頭役場え取集、座方え差出候依又は最寄遠国奉
行所或は御代官并御預役所え為二差出一候ハヽ座方え相廻
し、相当の代金下ヶ遣筈ニ候条、其旨心得、領主、地頭よ
り領分知行所不レ洩様可レ被二申付一候。
右の通可レ被二相触一候。
三月
右の趣今般江戸表より申来候間、不レ洩様向々え可レ被二相
触一候。
戌八月
右の通被二仰出一候間、早々順達相触可レ申候。以上
在 方 掛
亀田村より鍛次村 下湯川村 上湯川村 志苔村
銭亀澤村 石崎村 夫より上山村 赤川村 峠下村
一ノ渡村 本郷 大野村山附村々夫より有川村
木古内村迄 右村々役人中
以二御用状一申達候。然ば御厩御入用干草、先達て申達候外、
一ケ村ニ付三百拾島宛差出候様取斗可レ被レ下候。右は別段
御馬相増候ニ付、申付候間、御差支ニ不二相成一様精々取斗
可レ被レ申候。以上
八月十九日
在 方 掛
亀田村 鍛次村 上山村 赤川村 役人中
一 御用状壱封 大川村役人中 在 方 掛
右の通継送可レ申候。
一 右追草割壱軒ニ付拾三しま宛人数
六郎 清次郎 三太郎 嘉右衛門 紋三郎 三四郎
与吉 鉄五郎 権右衛門 勘右衛門 平七 角右衛門
徳太郎 重五郎 喜平次 六三郎 辰之丈 六右衛門
藤太郎 平蔵 勘次郎 万九郎 長作 石五郎 与七
彦七 外組頭 平蔵立合
右の通別段草苅申附候間、左の通記レ之
八月廿日
一 御用状壱封 赤川村 大 坪 郡左衛門
役人中 猿 田 幾右衛門
右の通上山村継送申候。
八月廿一日
御用の儀有レ之候間明廿三日朝五ッ時迄罷出可レ被レ申候。
以上
八月廿二日
在 方 掛
鍛次村
右役人中
赤川村
即刻継送申候。