仏教寺院の受難を決定づけたのは、ほかでもなく、明治元(一八六八)年三月二十八日の「神仏分離令」であった。別に「神仏判然令」ともいうこの分離令によって、明治政府は、仏教語で神号を称している神社、あるいは仏像を神体としている神社に対して、その分離・改変を求めたのである。この分離令は、長いこと、神道と仏教が、「神仏習合」の名のもと、和合をくり返してきたその神仏交渉史に照らしても、実に画期的なことであった。
このような状況のもとで、銭亀沢の宗教界は、どのような歴史を刻んでいたのであろうか。それをかい間みる上で、次の湯川・湯倉明神の動向を伝える史料は有益である。
以書付奉伺候
先般神仏混淆被遊御廃候ニ付、当所并在村取調申候処、所々混淆御座候ニ付、夫々取払申候内、下湯川村社司中川斐男奉仕罷在候湯倉明神神体則仏像ニ有之、速ニ取除可申候処、承応年間ヨリ奉斎御座候申伝ニテ、同村産子ノ者共因循候趣ニテ延後仕候処、漸今般申諭候由ニテ、昨日私迄持出候。右仏像ハ旧藩先代某ノ室女知内金ヲ以鋳立、同社ヘ奉寄候段申伝有之、尤旧記像銘等証跡ハ無御座候ヘ共前件ノ名像ニ付、被為在御布告通達御庁ヘ差出御沙汰奉伺候。且又同村産子共ヨリ可相成御像御座候ハバ、私共へ御下渡被成下度、然上ハ於村内奉祀仕度申出候。此条ハ却醸後害可申哉ト奉存候得共、猶御処分奉何度、只金像相添此段奉申上候、以上
社家触頭
菊池従五位
明治四年未二月十四日
開拓使
御中
(明治四年「社寺届」北海道立文書館蔵)
この一文によれば、湯倉神社の神官中川が、下湯川村明神は江戸時代の承応年間(一六五二~一六五五年)から村民に手厚く祀られてきた仏像の神体を持つものであり、しかもそれは松前藩主の側室が寄附した由緒あるものであるから、神仏分離の趣旨に則って一旦は開拓使に差し出すものの、調査の済み次第、再び村民の手許に返してほしい旨を嘆願していたことになる。
表現を変えていえば、神官中川と下湯川村の村民たちは神仏分離の政策に基本的にはしたがいながらも、現実の信仰のあり方においては、伝統的な土着信仰ともいうべき神仏習合の生活習俗は捨て難く、かなり明瞭なる理由を前面に押し立てて、上からの一方的な政策的神仏分離に異説を唱えていたのである。
銭亀沢の神社は、後に確認するように、この湯倉明神の支配下になっていた。その支配関係は近世から明治十二年まで存続したものと考えられる。
表3・4・1 明治5年の神社一覧
地域 | 神社名 | 神体 | 本祠 | 拝殿 | 神門 | 社地 | 起源 | 備考 |
渡島国亀田郡 下湯川村内根崎 | 大日靈貴尊 | 和幣 | 3尺 | 3間×5間 | 1基 | 間口10間 | 不分明 | 外ニ男躰白衣ノ立木像一体、 |
裏巾21間 | 左手ニ玉、右手ニ剣ヲ衝 | |||||||
奥行80間 | (可廃事) | |||||||
同郡志苔村 | 八幡宮 | 木像 | 3尺 | 3間×5間 | 3基 | 間口16間 | 不知 | 橘ノ御紋アリ |
坐像、白衣、弓箭 ヲ持玉フ | 奥行19間 | (可除事) | ||||||
(可存事) | ||||||||
同郡銭亀沢村 | 八幡宮 | 木像 | 2尺 | 3間× | 3基 | 間口20間 | 不詳由 | 神体…慶応元年箱館ニ於テ修覆ス |
御束帯白馬ニ召、 弓箭ヲ持、御衣草 色唐草大模様 | 5間半 | 奥行30間 | 本祠…朱塗外彩色アリ | |||||
享和3亥年再造ノ棟札アリ | ||||||||
石倉稲生社 | 神璽2 | 窟造 | 当時普請中 | 50間方 | 不詳由 | |||
内、慶応4年申請 ル神璽ヲ以テ神鉢 ト可致事 | 3尺 | |||||||
同村古河尻 | 川下社 | 和幣 | 3尺 | 3間×5間 | 2基 | 間口5間 | 不詳 | 外ニ雷斧石1(6寸斗) |
奥行18間 | (本祠合祠申付事) | |||||||
社地…壬申10月1日検見ス | ||||||||
文政3辰年再造 | ||||||||
同郡石崎村 | 八幡宮 | 木体 | 3尺 | 4間×7間 | 3基 | 間口20間 | 不詳由 | 厨子塗物 (可廃事) |
立像 白衣、地紋 亢龍、緋袴ヨロシ | 奥行21間 | 神門…木石 | ||||||
(可存) | ||||||||
(合祀) | 川濯神 | 木像 | 改祭同前 | |||||
立鉢、曖昧甚敷 | ||||||||
(可廃) |
「壬申八月・十月巡回御用神社取調」『函館市史』史料編第2巻より作成
明治初年の「神仏分離令」で、日本全体が激しく揺れ動いていた頃、おそらく、銭亀沢の神社界はその支配関係から考えて湯倉明神と同一の歩調、つまり、土着伝統重視の神仏習合的な方針をとっていたと思われる。
銭亀沢の神社に対しても、明治政府の施策どおり、「神仏分離」を断行すべく、神社取り調べがおこなわれた。明治五年九月二十九日から十月一日のことである。この取り調べは、開拓使から派遣された函館八幡宮祀官菊池重賢がおこなった「壬申八月・十月巡回御用神社取調」(『函館市史』史料編第二巻)がそれである。それは神社はもちろん、神社本体の間口についても、詳細に及んでおり、当時の神社の様子を知る上でも参考となる(表3・4・1)。
取り調べは、根崎の「大日靈貴尊」、志苔村の八幡宮、銭亀沢村の八幡宮と石倉稲荷社、同村内古川尻の川下社、石崎村の八幡宮とその合祀の川濯社について、それぞれその神体や神社の規模などの調査が実施されたのである。銭亀沢の八幡宮には享和三年に再造の棟札が、古川尻の川下社には文政三年の再造の伝えがあっても、この調査では、六社の全ては「起原不詳」となっている。明治五年の調査の力点は、起原の年代確定にあったのではなく、「神仏分離」政策の方針のもと、仏教系の神体の精査とその廃除にあったのである。根崎の大日靈貴尊にある木像、志苔八幡宮の木像の橘の紋、石崎木像の橘の紋、石崎八幡宮の厨子の塗物などは、「可除事」「可廃事」と、細かにチェックされていた。
表3・4・2 明治12年の神社調査一覧
社 名 | 地 域 | 社 格 | 祭 神 | 由 緒 | 氏子(信徒) | 備 考 |
川濯神社 | 下湯川村根崎 | 雑 社 | 木花咲夜姫命 | 勧請寛文3年7月 | 社名変更(大日靈貴尊) | |
八幡神社 | 志苔村字志苔沢 | 村 社 | 誉田別命 | 勧請年間天正年中ノ由不詳 | 69戸 | |
稲荷神社 | 志苔村字大澗 | 雑 社 | 宇迦魂神 | 勧請年間不詳 | 明治5年の調査では未記載 | |
八幡神社 | 銭亀沢村字本村 | 村 社 | 誉田別尊 | 正保元甲申年村民協議上建立 | 122戸 | |
石倉稲荷神社 | 銭亀沢村字橡木 | 無格社 | 倉稲魂神 | 明和6巳丑年村民協議ノ上建立 | 125戸 | |
川濯神社 | 銭亀沢村字古川尻 | 無格社 | 是花咲屋姫命 | 明和元甲申年中村中協議ノ上建立ス | 36戸 | 字句変更(川下社) |
八幡神社 | 石崎村字口崎 | 村 社 | 誉田別命 | 永享年中平氏盛阿弥敬信ノ由古老ノ伝 明和8辛卯年7月神林安置ト村誌ニアリ | 134戸 | |
大山祇神社 | 亀尾村字野広場 | 雑 社 | 大山祇命 | 安政2年村中協議ヲ以テ始テ建立 | 12戸 |
「亀田八幡宮管下諸社調査」『神道大系北海道』より作成
これは逆にいえば、銭亀沢の諸社にはそれだけ旧来の伝統的な「神仏習合」的な要素が色濃く伝承されていたことを意味する。だからこそ、前述のように、銭亀沢村の神社はその本社ともいうべき湯川・湯倉明神ともども、前年の明治四年における「神仏分離」調査で、伝統重視の土着主義を主張したのであろう。
この菊池による明治五年の「壬申八月・十月巡回御用神社取調」が、さらに注目されるのは、根崎から石崎村の六社について、その末尾に「以上、亀田郡湯川村湯倉明神ノ氏子場」と総括している点である。つまり、銭亀沢地区の六社は、湯倉明神の「氏子場」として、その管轄下にあったのである。
このことから逆推すると、近世から明治五年の時期、銭亀沢の神社と湯倉明神とは、一貫して、支配と被支配の関係であり続けたと考えられる。
ところが、それが明治十二年になると、その支配関係に一大異変が起きる。銭亀沢の神社の管轄が、湯倉明神から亀田八幡宮に代わったのである。この管轄・支配の変化の背景には、種々の理由が考えられようが、結果論的にいえば、この変化が銭亀沢村の神社界に一定の都市化の契機を与えたことだけは、確かであろう。