寺院の姿

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 それでは、もう一方の寺院は、近代の世にあって、地区民とどのようにかかわっていたのであろうか。まず、明治二十七年の『北海道寺院沿革史』と大正七年の「函館支庁管内町村誌」をもとに、その来歴から跡付けてみることにしよう。
 銭亀沢の仏教寺院について、まずなによりも指摘されなければならないのは、現在の六か寺(日蓮宗の妙応寺、浄土真宗の観意寺、曹洞宗の善宝寺・西願寺、浄土宗の勝願寺大願寺)のうち、浄土宗の大願寺を除く五か寺が、石崎に集中していることである。その中で最古に属すのは、いうまでもなく、日蓮宗の妙応寺である。
 『北海道寺院沿革誌』によれば、妙応寺の建立を日持の渡道にもとめ、正安元(一二九九)年中には、帰依者が一宇を創建し「経石庵」と称したという。近世に入り、寺院の本末制のなか、「経石庵」も函館実行寺の末寺となり、「留守居ヲ置」いて地内の葬祭などを執行していた。やがて、壇信徒も増えたので、明治十二年に及んで、住職佐藤照稟のとき「妙応寺」と寺号を公称した。明治二十七年の頃、境内地積は一五五坪、堂宇は本堂が八間に七間、壇信徒は五〇戸という。
 地区内に現存する六か寺のうち、『北海道寺院沿革誌』が登載しているのは、この妙応寺と勝願寺および大願寺だけである。ただ、この勝願寺大願寺の記事も、妙応寺に比べてかなり簡略なものとなっている。勝願寺については、前身を「求道庵」として、「本寺は函館称名寺、明暦二年(一六五六)の建立、開基は求道、境域は三〇六坪」と伝えている。一方の銭亀沢の大願寺の前身の「念称庵」に至っては、本寺が函館称名寺であること、「沿革」として、「明和二年(一七六五)上湯川村ヨリ移転」と記すのみである。
 『北海道寺院沿革誌』は、このように、勝願寺大願寺についてそう多くを語らないが、それでも近世の明暦二年と明和二年に、それぞれ「求道庵」「念称庵」として造立されたことが確認できる。この二か寺はともに称名寺の末寺である。前述「経石庵」と同じく、この二か寺も近世から近代の明治二十七年頃に至るまで、本寺である称名寺から留守居を派遣し、地内壇信徒の葬祭を執り営んでいたと考えられる。
 ほかの三か寺は、どんな経緯で造立されたのであろうか。これら三か寺は、明治以降に寺号を公称した寺院である。大正七年の「函館支庁管内町村誌」(渡島教育会編)によると、浄土真宗大谷派の観意寺については、「由緒 明治丗年七月寺号公称許可、丗三年本堂建立ス」とあり、次いで曹洞宗の善宝寺については、「由緒 明治廿九年六月 寺号公称、同丗年二月本堂建立ス」とある。もう一つの曹洞宗の興禅寺は戦後の造立であるので、大正七年の「函館支庁管内町村誌」は伝えていない。
 なお同史料によれぼ、前述の「求道庵」は明治二十五年に本堂を再々建したといい、「念称庵」は大正七年六月に寺号を「大願寺」と公称したと伝えている。
 近代寺院の歴史は、近代国家の宗教施策の中で均質的に展開することを求められたのであるから、妙応寺と勝願寺の動態を参考にして、当時の寺院世界ないし地域民と寺院とのかかわりを類推しても、そう大過はないように思う。