〈石崎〉

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 石崎村は、銭亀沢村境より、字小鳥澗、字崎、石崎宮の川を挟んで字石崎、寺の川を挟んで字中村、中村川を挟んで字白石、白石川を挟んで字目名町、字谷地町と続き、谷地町川で小安村に接している。字石崎石崎宮の川と寺の川に挟まれた間口約一八〇メートル、奥行四〇メートル足らずの狭い地域である。石崎村の干場割渡に関しては史料がないため、その時期や位置の比定はできないが、志苔と成立時期が相前後するという伝承がある。地割の形状は、「土地連絡図」では、間口六間から七間、奥行一〇間内外の小規模な短冊状地割が海岸沿いにあり、宮の川の形成した狭い河岸段丘にも宅地割がなされている。江戸時代には銭亀沢地区でもっとも人口が多く、川沿いや東側の字中村や字白石へと拡張していったと思われる。
 字石崎の西境は石崎宮の川で、対岸に字石崎の地番を持つ石崎八幡神社が旧道に面して位置する。石崎八幡神社は一五世紀創建といわれる古社で、明和八(一七七一)年に旧道に面した場所に設置された。東境は寺の川で、墳墓地はみあたらないが、寺の川河口部に求道庵(浄土宗勝願寺)があり、寺裹という小字も存在することから、当初の東境をこのあたりとすることも可能だろう。字石崎の場合、和人地の東境という条件から、かなり早い段階での村落の拡大が考えられるが、当初の空間構成が志苔村と同型であるかどうかはわからない。
 字白石は、中村川と白石川に挟まれた地域で、海岸に迫る段丘が河口部まで迫り出し、平地はごくわずかである。一九七〇年代以降、国道の拡張工事にともない段丘を削り平地を広げつつある。中村川河口東よりに、短冊状地割に並んで間口を少し広く取って経石庵(日蓮宗妙応寺)が位置している。一方、西境の白石川西岸には、宅地が川沿いに少し北上しているが、境界を象徴する施設はみあたらない。字石崎、字中村、字白石では、浜側の干場がすべて宅地化しており、字石崎の人口の増大による宅地開発がうかがえる。
 以上のように、銭亀沢地区では、小字が川によって区切られていること、近世初頭以前に成立した小字集落は、昆布漁業を核にした漁業集落で、集落境界に神社や墳墓地・寺院などを配置しており、海岸沿いの道路をはさんで短冊状地割がおこなわれている。そして、一六世紀末期に干場割渡がはじまり、宅地は当初疎塊状に道路に沿って点在していたが、一八世紀には道路の片側に干場を前庭にして並んでいたことがわかる。一方、一九世紀に開発された鰯漁場は間口が広く、地割の形状が昆布漁村とは異なっている。