5、村並から「尻岸内村」へ

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 1858年(安政5年)尻岸内(村並)は「尻岸内村」となる。
 1801年(享和元年)村並に認可して以来、57年を経ての認可である。勿論、これは箱館奉行の認可ということであるが、これについての認可文書は見当たらない。推論ではあるが、認可した理由として、その1つは『箱館六ケ場所調べ』等を含めての各種調査報告書から、「村としての要件が整っている」、いわゆる成熟してきたと判断したから。2つめとして、箱館が開港し外国船が頻繁に来航する以上、箱館の周辺である六ケ場所周辺を「日本人村として明確にしておく」こと、と同時に、不測な事態が生じた時には(軍事的に)対応できる体制を取らせるためにも、「村・幕領」と認知させる必要があったのではないかと推察される。
 なお、郷土の史跡、古武井溶鉱炉と関連施設(冷水川仮溶鉱炉・女那川レンガ製造所)の築造は、幕府・箱館奉行諸術調所教授で蘭学者の武田斐三郎設計)の手により、この「村認可」の3年前、1855年(安政2年)すでに工事に着手している。これは幕府の北辺警備(ロシアの南下に対しての防備)のための「五稜郭」に設置する大砲の築造が主たる目的であり、この幕府・箱館奉行の大事業に土木工事など、郷土は村を挙げて奉仕させられたものと思われる。

恵山町ふるさと民話第3集「ムサの台の溶鉱炉」より


郷土のすがた 安政6年(1859)延叙歴検真図(えぞれきけんしんず) 目賀田帯刀画より
距離は箱館奉行所からの陸路(市立函館図書館所蔵)