『福島屋文書』「取扱向大意心得帳」万延2年(1861)より (市立函館図書館所蔵)

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 この文書(もんじょ)のなかに、「五升芋の生産と税」について、その生産状況・課税の方法等興味のある事項が記されているので、抜粋し記載することとする。
 
 五升芋は蝦夷地の風土にも適し、蝦夷地開墾の作物の第一である。箱館開港以来、外国人の需要により、箱館奉行所では近在の村々に五升芋の作付けを奨励し、箱館産物会所で買い上げた。産物会所の記録(福島屋文書)によれば、万延二年の買い上げ見込みは凡そ八万俵である。この生産高からも箱館奉行所の力の入れようが窺える。
 この消費の内訳は、外国人向け食料用三万俵、茂辺地村での焼酎味醂製造用一万俵、亀田村の水車場での澱粉製造に三万俵、尻沢辺村(函館市住吉町)兵吉買上げ一万俵、焼酎製造用等、各場所作付け種芋分として一万俵を確保、と記されている。
 買い上げ価格は、上芋・中芋・下芋の品質により代価は異なるが、一俵一六貫目入り「銭一〆七六〇文」である。これに対する課税「芋冥加金一〇文」と諸掛「冥加宿世話料二七文五分・村々名主扱料二二文五分、計五〇文」で、合計六〇文となり、生産者の手取りは「銭一〆七〇〇文」であった。
 奉行所奨励の作物、また生産高の向上からも、五升芋への課税は名目的で当時の、いわゆる年貢から見れば、非常に低く押さえられていたように思われる。
 
 「上磯・茅部二郡二十九ケ邨一面表」(明治4年)には、村々の作物「大根・五升芋・小豆・大豆」と記載されていることからも、この五升芋については、わが故郷でも相当栽培されていたと推察される。五升芋の名称は方言で、1個の種芋から5升採れるということから名付けられたと伝えられており、17世紀に輸入されたジャガタラ芋と思われる。