(2)箱館港防備の意見上申

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 安政2年(1855年)5月13日、箱館奉行となった竹内下野守保徳と堀織部守利煕(としひろ)は箱館港防御のための軍事施設を速やかに整備充足し、海防の完璧を期したいとして「箱館表御台場其外見込之趣大意取調奉伺候書付」を幕府に提出する。以下その内容を要約する。
 
 箱館の港を開いて外国船の出入りを許して、外人上陸をも差し許したのは、御時勢の上から止むを得ないことであるが、これ以上諸外国が我儘な望みを抱かぬよう抑制しなければならないが、それはただ言葉の上でいい聞かすのみでなく、わが国を畏敬して止まないだけの軍事施設を整える必要がある。
 箱館の港はおよそ6里余りにわたる砂浜が続いて、船上から望めば一目で市中から近隣村々まで見渡され、行動の進退が直ちに見透されるという土地柄である。外人共が上陸し自由に散策するようになれば猶更(なおさら)のこと、備えを充分にしなければ、外人共は我国を侮り、いつ如何なるときに兵端を開くかも計り知れない。と言っても数里の海岸であるから、一時にそれらの軍事施設を整えるのは困難である。そのためには要衝を撰び、急を要するものから逐次着手して不要の経費を省くようにしたい。さて、箱館の場合は10数里もの間(知内から汐首岬までは20里程ある)には物陰もなく、また南部、津軽藩の応援を求めるとしても、その居城は遠く数十里も距てており、殊に海路は険悪で平常渡海の場合でも順風がなければ10日、1ケ月と船の往来が途絶える有様であり、若し外人共がこれら地理的条件の欠陥を衝いて攻撃してくるようなことがあれば一時にして敗れ、市中その他は粉砕され焼き払われて仕舞うであろう。
 しかも内地においては、かかる事態が起きていることを知らずにいることもあり得るだろうし、また、例えこのことを急報し得たとしても時機すでに遅く、応援隊の到着も覚束ない。松前藩ありとはいえども、これ亦山路を越えて4日間も要することになる。さりとて警備兵を四方八方に配置し繰出す事は不可能である。そしてまた蝦夷地は甚だ広大な土地であるから、外人共が何処の地点を不法に占拠することがあっても、箱館から急ぎ兵員を手配することは困難である。
 かかるが故に、差し当たっては如何なる事態がいつ起ころうとも、内地からの援兵が到着するまで、もちこたえる程の軍事施設が必要である。
 そのためには、先ず、矢不来台場・押付台場は相対峙する重要な地点として、貫目以上の大砲を20挺ほど備付け、押付、山背泊の両台場は1ケ所にして、その中央に取建て矢不来同様の備えをしたい。弁天岬は箱館の港口を抱す重要な地点であるから、ここに台場を新たに取建て貫目以上の大砲を15挺を備て山背泊と十字射撃ができるようにしたい。立待の台場は外国の船共外洋に廻った際、海岸の左右に砲門を開き発射できるよう一〆目位の大砲7、8挺を備え、築島の場所には新たに扇面形の台場を取建てて、一〆目以上、15挺を備えて弁天岬と呼応し、沖之口番にも一〆目以上の大砲4、5挺を備えつけることにしたい。
 しかし、これらの大砲の砲身を一時に鋳造することは出来まいが、蝦夷地の海岸には砂鉄が多くあるので、地理を見立てて松前伊豆守とも相談の上、熔鉱炉と反射炉を設けて、砲身を鋳るとすれば経費も少なくて済むことになろう。
 これらの台場等が出来上がれば多数の兵員を必要とすることになるが、それには南部・津軽藩の兵を以って勤番させ、海軍調練を施し、大森浜から汐首までの平原平野を馬草刈場とし、追々足軽雑人を移住開墾して土着させ、管下農漁民うち壮健な者を撰び、1ケ月に1、2度招集して銃陣地調練を授け、外国船の入港中は奉行所や沖之口などへ相詰めることにすれば、その経費も尠(すくな)くて済む見込みである。
 以上、篤と協議の上その大意を申上げ、思召しあらばなお、台場絵図面、大砲の大きさ、数量見込みについても詳細説明したいので、早々に御指図を頂きたい。