これを受けて、まず、弁天岬と築島の砲台の構築を許可し、詳細な設計図を提出させ検討のうえ、諸台場、奉行庁舎土塁、官舎、弁天岬・築島・沖之口3台場の新築経費の予算、41万8千7百6拾余両を決定し、20ケ年継続事業として、また、『尻岸内に熔鉱炉と反射炉を設置する』ことも併せて了承し、差し当たって1ケ月2万両ずつを支出する旨の通達があった。
箱館奉行はこの通達を受け、その設計を英俊な蘭学者であり、諸術調所教授の武田斐三郎に当たらせたのである。(なお、築島・沖之口台場は設計・施工に着手しなかった)
斐三郎の設計した弁天岬砲台であるが、砲台の石垣の四隅には鉄柱を貫くという近代工法を取り入れ、後に取壊すとき、あまりの頑丈さに技術者たちが驚いたと伝えられている。
その規格・規模は、高さ11メートル、周囲約715メートルの六角形で、面積凡そ4万平方メートル。そこに、15門の大砲が据えつけられた。大砲の中には露国使節プチャーチンの座乗船ディアナ号の大砲も含まれ、まさに「海の要塞」ともいうべき威容を誇った。
一方、五稜郭は亀田役所土塁の名で、安政4年(1857年)工事に着手、9年後の元治元年(1864年)に完成している。斐三郎はこの設計について、1冊のオランダの築城書「仏蘭西築城書の蘭訳本(フランス人サニングの訳本)」を拠りどころにしたが、フランス式築城法に自らの創意を加えて設計したといわれている。
この五稜型保塁の形式は、ルネッサンス(13世紀末から15世紀末にかけてイタリアに起こり全ヨーロッパに波及した芸術上・思想上の革新運動、人間中心の近代文化への転換の端緒をなした・文芸、学芸復興)の理想都市として市民防衛を目的に計画考案され、フランスに於いて発達してきたものであった。斐三郎が、その城市と保塁の形式を我が国に取入れたのは、仮に外国人が上陸して砲火を交えることがあっても、かってオスマントルコの攻撃を阻んだウイーンの城壁のような威力を発揮させようと工夫・設計したものと思われる。しかし、この攻防も15世紀の戦いであり、五稜郭が19世紀の、西欧諸国との近代戦争に耐え得る城砦ではなかったとする説が有力である。ともあれ、我が国最初の洋式城砦として、1人の科学者が1冊の蘭書を読み解き、設計・構築したということは、稀有な事であり、また、産業考古学上からも極めて重要な事であろう。