[道路開削の嚆矢]

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 蝦夷地全域がまだ松前藩領土であった寛政10年(1798)、幕臣近藤重蔵の手により、ルベシベツからビタタヌンケに至る3里・11.8キロメートル(距離については、2里・8キロメートルとの記録もある)の山道が切り開かれた。これが、蝦夷地の道路開削の嚆矢といわれている。
 寛政10年(1798)幕府は、蝦夷地沿岸に接近するヨーロッパ船や、頻繁に南下してくるロシアを恐れ、その状況を把握するため、総勢180名余の巡察隊を組織し探検を命じた。その中に、支配勘定方近藤重蔵がいた。重蔵は10月、国後択捉島を調査、タンネモイの丘にロシア人の建てた木柱があるのを見て倒し、次のような標柱を建てている。
 すなわち、択捉島が我が国の領土であることを明らかにした標識である。
 
         ・寛政十年       最上徳内
 大日本恵登呂府        近藤重蔵       下野源助
          戊午七月       従  者
                             (以下略) 
 
 国後択捉島調査の帰途、近藤重蔵厚岸を経て広尾まで来たが、風雨が強く波が高く海岸沿いに進むことができず、数日間の滞在を余儀なくされた。その間、天気の平穏な日でも、崖を登り降りし、波間を見計らって岩礁伝いに、辛うじて通行できる状態を見せられた重蔵は、道路案内に立った最上徳内の意見を入れ、従者・通詞、アイヌの人々68人とともに、ルベシベツ(現広尾町字音調津)からビタタヌンケ(十勝・日高の境界)に至る3里(11.8キロメートル)の山道を、独断・私費を投じて切り開いた。そして、山道の入り口に、次のような文を刻んだ立札(榜示(ぼうじ))を建て、人々に往来の心得を示した。
 
 おぼへ
 このみちわ はまとおり トモチクシならびに ヒンナイとうの
 なんしょありて わうらいのもの なんぎすべきによりて
 このたび あらたに きりひらきたるあいだ こののち
 わうらいのもの ひとえだのき いっぽんのよしなりとも
 きりすかして ながく わうらいのためを こころがくべきものなり
                 寛政十年午十月  近 藤 重 蔵
 
 この道路工事の顛末については、従者の1人、水戸藩士で漢学者の木村謙次(改名して下野源助)が、漢文で板に彫り刀勝明神社(十勝神社)に奉納した。
 現存する工事顛末を刻文板『東蝦(とうか)新道記』は、後の万延元年(1860年)、元の板が朽ち、読みにくくなったため箱館奉行鈴木重尚(茶渓)が再書し、戌士橘正豊・西正友らがサクラの板に再刻したものである。
 幕府が北方防備の強化などを理由に、知内以東の東蝦夷地を直轄したのは、寛政11年(1799年)、この翌年のことである。