このような幕府・箱館奉行の方針に基づき、蝦夷地の道路開削・宿泊施設(会所)の建設が各地で行われた。
主な道路の開削では、寛政・享和年間(1789~1803年)東蝦夷地の礼文華山道(長万部~虻田)、様似山道(様似~幌泉)、猿留(さるる)山道(幌泉~猿留(さるる))等の道路を開削、文化年間(1804~1817年)には仙鳳趾~厚岸、木古内~上ノ国、さらに西蝦夷地の岩内~余市、その他、数か所の道が開削された。これらの道路開削により、蝦夷地内の主な陸路は冬期間を除き、何とか通行可能になり里程(距離)もいくらか短縮された。
これら、蝦夷地の道路開削・整備をするとともに、旅人の宿泊設備も徐々に整えられるようになってきた。寛政11年には道路が開かれると同時に、東蝦夷地(道東)の人家の少ない昆布森・仙鳳趾・厚岸・野付など10か所に、まずは宿泊所が開設された。