村に残っている記録としては、明治十三年頃に書かれたものに
「登記所は函館区裁判所戸井出張所にして、戸井村館鼻番外地、旧館跡にあり、専ら登記事務を取扱う」というもの、
大正八年の記録に
「古老の伝うるところによれば、戸井はもと土人(蝦夷)の部落にして、寛永年間(○○○○)、岡部六左衛門(○○○○)なるもの、現在の役場敷地に城郭を築き、部落を支配せしものにして、役場所在地の字(あざ)を『館鼻』と称する所以(ゆいん)これに基因せしものなりという。和人は夷乱に落城後退し、土人また漸次退去するに至る」とある。
日新小学校に保存されている記録に「本村旧役場跡(○○○○)に館の存在せられしというも…」とある。
以上三つの記録から館のあった場所は、登記所のあるあたりで、このあたりに宮川神社、警察、戸長役場があったことがわかる。旧役場跡というのは、現在の役場庁舎のあるあたりではない。旧役場というのは戸長役場で、「登記所は旧館跡にあり」という記録から旧役場は登記所や宮川神社の近くにあったことは明らかである。
旧宮川神社跡
役場の移転の歴史を調べて見ると、明治十一年(一八七八)戸井村、小安村を併せて一つの戸長役場となり、役場は〓谷藤家の前にあった会所(かいし)の建物をこれに当てた。会所の前浜を「会所の下」とよんでいた。会所の建物は以前は運上(うんじょ)屋であった。古文書に「戸井の運上屋」と書かれているのはここである。即ち運上屋が会所となり、明治十一年以降戸長役場に当てられたのである。戸長役場は草葺の屋根であったと古老が言い伝えている。
明治二十七年(一八九四)九月、五代目の戸長佐藤吉貫の時に、字館鼻番外地(後に二番地と改めた)に役場庁舎を新築して移転した。警察署もこの建物と同居し、火の見やぐらがついていた。館跡のあった「旧役場」というのはここである。
村の古い記録も見ず、戸長役場以来の役場庁舎の移転の歴史を知らない後世の人々は、旧役場は明治四十二年に焼けた役場だと思い込み、現役場庁舎改築の整地の際に地下から何か出るのではないかと期待した人がいた。
大正八年の記録の「古老の伝えによれば、寛永年間岡部六左衛門云々」という寛永年間というのは明瞭な誤りである。寛永年間は寛正年間の誤りであって、それが根拠のあるものであれば、寛正は一四六〇年から一四六五年であるので貴重な記録である。
戸井館の伝説は後世かなり脚色されているふしがあるが、大体次のようなものである。
「コシャマインの乱の頃、館鼻の旧役場の背後の高台に、岡部某(岡部六弥太、岡部六郎左衛門と書いたものもある)が館を築いていた。館は周囲に土塁を築き、その中に普通の民家より少し大きな建物がたっている程度のものであった。この館がコシャマインの襲撃を受け、館主岡部は浜中に蝦夷の軍を迎え討ったが、衆寡敵せず、更に蝦夷の放つブス矢に当って次々と討死して、味方が少なくなったので、館主は残兵をまとめて館に引き上げ、『今はこれまで』と、館の一角にあった井戸の中に金銀財宝を投じ、大きな石で井戸に蓋(ふた)をし、兵と共に自刃して果てた。
館主は生前、館の近くを流れる小川の川口の洲(す)の中に立っていた三つの石碑を毎朝礼拝していた。その石碑はどんないわれのあるものなのか、何のために礼拝したのか村人は知らなかったが、館主が死んでから年を経て、村人たちは川のほとりに小祠を建て、宮川という川の名をとって宮川神社とよび、村人が尊崇するようになった」と。
これが村人の伝える館とそれにまつわる伝説である。
古文書には館の存在についての確かな記録はないが、これは当然のことである。下海岸のことが記録されるようになったのは近々三〇〇年以降のことで、五〇〇年も昔のことは全然記録にはない。伝説は長年月の間には、いろいろ脚色されて変貌(へんぼう)するが、事実無根なことは伝わらないものである。
伝説のあるあたりに館鼻という地名がつけられ、館のあったという場所の近くの入江がオカベトノマ、オカベトマリ、オカベマなどの名でよばれていることを古文書で知った。この入江の名は現在残っていないし、古老も知らない。又岡部某という館主が毎朝礼拝していたという石碑が、館のあったという場所の近くにあるだろうと考えて捜した結果、二基の板碑を発見したのである。
板碑は輝石安山岩(きせきあんざんがん)の、刻面に僅か手を加えて、仏号を表示する梵字(ぼんじ)や文字を刻んだものであるが、長年月の間に風化磨滅して、建立年月も建立者の氏名も読みとれないが、板碑研究者はその型式等から、函館の「貞治の板碑」と同じ頃のものであろうと推定している。この板碑は従来伝説の域を出なかった「館の存在」を証明する証拠物件なのである。戸井の館跡附近から発見された二基の板碑は、昭和四十六年三月五日付で、貞治の碑と共に、北海道の文化財に指定されたのである。
この板碑の発見場所は、鰮大漁時代に〓宇美家の三号漁場と称していた後の丘に建てられていた海津社の境内である。
〓宇美家の三号漁場は、以前函館の〓安達家の仕込漁場で、伊藤金太郎が責任者として経営していた。この場所は昔、宮川とミツコの沢に夾まれた場所で中島とよばれていた。板碑はこの中島に建てられたことは碓かである。不漁が続いた頃、〓宇美家の五代第吉が、〓安達から大正六年に三万円で買収したという。
〓宇美家で買収した時には、既に海津社があったという。その後この場所は大漁が続き、〓宇美家の千石場所といわれた。海津社の祭神は、竜神と稲荷大明神であったが、太平洋戦争の終戦直前の空襲で、祠が破壊され、板碑を発見した当時は、土台石と二基の板碑だけが残っていた。この板碑について「〓の先祖が、川の中から拾って祀ったということを五代第吉が語っていた」と、〓家の子孫が語っており、更に「昔から法華(ほっけ)の石とよんで村人が礼拝していた」と語っている。
〓宇美家が近江国から鎌歌に移住して来たのは、亨保年間と推定されるが、鎌歌から浜中に住居を移したのが明治二十七年(一八九四)四代第吉の時代である。板碑を川の中から拾って祀ったということが事実であれば、大正六年三号漁場を、安達家から買収した五代第吉の時代であろう。海津社の境内に建てられていた時は二つの板碑がコンクリートでつながれて立っていた。コンクリートでつないだのは、大正八年頃と伝えられている。三基のうちの一基と思われるものが、三号漁場の海岸に〓家で築いた石垣の下部に割られて積まれている。
館の近くを流れる宮川のほとりに建て、川の名をとってその名としたという宮川神社の創建は、明和二年(一七六五)と伝えられ、館があった時代から約三〇〇年々月を経ている。伝説の通りに、館時代から宮川の名がつけられ、後世ここに神社が建てられたものとすれば、館主岡部某が館の守り神として祠をこのあたりに建て、その祠のほとりを流れる小川が宮川とよばれ、祠が朽ち果ててからも宮川の名が蝦夷たちによって伝えられたものと推定される。明和二年宮川神社創建と伝えられる事蹟は再建ということになるであろう。菅江真澄が寛政元年(一七八九)七月十七日このあたりを通った時の紀行文には、神社のことを全然書いておらず「ここにおましある観音堂のほとりに云々」と書いている。明和二年(一七六五)に宮川神社が創建されたとすれば、真澄がここを通ったのは二十五年後である。真澄が宮川神社のことを書かなかったのは、神仏混こう時代であり、旅を急ぐ真澄は、この堂に立ち寄って調べなかったことも推定される。
宮川神社の祭神は道南では珍らしい「大日霊貴命(おおひるめむちのみこと)」である。即ち天照大神(あまてらすおおみかみ)で太陽神である。館主岡部氏の祖は伊勢地方を領していたという事蹟があるので、天照大神を勧請し、再建の時に村人がその祭神を継承したことが考えられる。館主が板碑の方向を毎朝礼拝したということは朝日を拝したものとも思われる。伊勢にゆかりのある人の子孫は、毎朝、朝日を拝する習慣がある。
宮川神社に保存されている「嘉永元年(一八四七)八月二日、拝殿再建の棟札」に「明応年中一四九二―一五〇〇)鰐口有之」と書かれている。この鰐口は現在ないことは残念であるが、宮川神社は館時代から続いて来た一つの証拠であろう。宮川のほとりにあったこの神社は、河毛支庁長の指示によって創建の場所から現在地に移転されたという。
板碑は「川の中から拾った」という言い伝いもあるが、宮川神社の近くにあったものを、神社移転の際に宇美第吉がもらい受けて海津社の境内に移したことも考えられる。板碑は最初建立された場所から二、三度移転したことは確かである。
宮川もミツコの沢も、二つの小川に夾(はさ)まれた中島も、鰮大漁時代から現代にわたって、川が埋められ、ミツコの沢は役場庁舎の改築や日新中学校の通学道路の切替のために埋められ、昔の面影は全然ない。
戸井の館は古老の伝えによると、運上屋のあった高台から大宣寺あたりまでの二、三ケ所にその建物があったという。宮川のほとりの現在登記所のある近くに、今でも清水がコンコンと湧出しているところがある。伝説の井戸はこのあたりにあったものと思われる。昔下北佐井の人々が、このあたりに畠まきに来ていたが、財宝が埋められたという伝説を聞き、親方が佐井から人夫をたくさん連れて来て、このあたり一帯を堀り返したが、何も出なかったという言い伝えがある。
『松風夷談』に採録されている、トイから古銭や石櫃(いしびつ)が出土したという場所もここである。『松風夷談』の記録を意訳すると
「文政四年(一八二一)箱館の東、トイというところで、古銭が堀り出され、洗って磨いて見たら、その文字がわかり、大観通宝、開元、永楽、洪武銭などであったという。このことがトイに住んでいる者から公儀に報告されたので、公儀が御調査したところ、古銭は六十二貫余りもあり、その外水晶、朱砂の類を百品余りも堀り出したということである。
右トイというところに、岡部の澗といって、小舟がかりの入江がある。陸には岡部館というところがある。そこに石碑がある。公儀の役人がその石碑を石摺(いしずり)(拓本とりであろう)に申しつけて、摺(す)らせたが文字がはっきりわからなかった。その石摺(拓本)のうち、『岡部六弥太六代孫岡部六郎左衛門尉季澄』という名のところだけ、はっきりわかったとのことである。
昔からこの辺の沢に、度々(たびたび)光るものがあるが、トイの人々にもその近辺に行って見ることを、昔から禁じているとのことである。
そのあたりから六尺四方もある石櫃(いしびつ)を一つ堀り出した。堀り出した時に、石櫃(いしびつ)の中を見なかったので、中にどんなものがはいっていたか一般の人々はわからなかった。これについては、公儀で調べた結果、御評議次第、発表するということを、松前藩の方から言って来た」と書かれている。
戸井の人々が伝えている「館とそれにまつわる伝説」の大半はこの『松風夷談』に書かれた事蹟がその根源と思われる。石櫃にどんなものがはいっていたかは、松前藩からの発表もなく謎である。