昨昭和四十三年春、下海岸志海苔(しのり)町で大量の古銭が発見されて人々を驚ろかしたが、秋にはまた戸井(とい)町から板碑(いたび)が発見され、室町期の道南を知る貴重な資料として注目を集めたのであった。
板碑発見当初その調査を依頼された私としては、調査報告書を作製して、斯道諸兄に報告するのが義務と考えていたが、通り一辺のことは嫌いな私の性分として、十二分に調べ上げてから詳細に報告しようと考えていたのである。しかるに最近、この碑に対する全く素人の勝手な意見が一部に横行する兆が見え、また世人を惑わすような意見が堂々と新聞紙上に発表されたりしたため(北海道新聞S43・12・14付、白山友正『戸井町板碑の周辺』の如き)、こゝに不本意ながら、該板碑調査に関する中間報告として、愚見を公表することとしたのである。
板碑発見の経緯
昨年町制のしかれた亀田郡戸井町では、町史を編纂中である。担当者は同町日新中学校の野呂進校長であるが同氏は町史編纂の作業中、誠に貴重の史料を数々発見せられ、先年は汐首から円空上人作仏像を発見せられて、大変な話題となったのである。
同氏が今度、板碑を発見された経過については、発見と同時に私に調査を依頼してきたその書状に詳しいので、左に転記する。
「(前略)
戸井郷土誌第一集「四、館の伝説とその考証』のところに「館主岡某が生前館の近くの、宮川の川口にある砂洲にあった三つの自然石を毎朝礼拝していた」という伝説がある(六頁)伝説の三つの自然石と思われるものの二つらしい石を発見した(七頁)と書いておきました、最近よく/\注意して見たところ、一つの石の片面に模様らしいものと漢字が書かれていることに気付きました。腐蝕して読み取ることが出来ないので、試みに拓本をとって見たところ、板碑に類したものではないかという気がしますが、その方の知識がないので判断つきません。
(中略)石はこの地域にある青味がかった安山岩です(後略)」
以上のようなわけで、拓本が同封してあり、碑一基の図示と寸法などが記るされており、それは昭和43年11月15日付の書状であった。(戸井村郷土誌第一集』は43年6月刊)
拓本を拝見するに、油墨を使い過ぎているため、にじみが多く漢字は判読できないが、梵字らしきものが判った。そこで直接行って実物に当る旨を野呂先生に連絡し、先生のご都合や私の用事などの関係で、十一月二十六日に日新中学校へ野呂先生を尋ねた。一基の板碑が校長室に運ばれて横になっていた。間違いなく立派な板碑である。ところが先生はいま一つ見つかったので玄関に運んであるといわれる。案内されて見ると、これまた見事な板碑である。つまり板碑が二基発見されたわけである。先生は私に板碑発見の経緯と、さらにこれらにまつわる伝説について四〇〇字詰原稿用紙三枚に『館の伝説と板碑』と題して、次のような一文を認めておられ手渡された。
「戸井の館は旧役場跡より少し山手にあった。当時の館は極く粗末なもので、僅かに塁を築き、蝦夷の家屋と趣を異にした程度のものらしかった。昔蝦夷の酋長コシャマインが原木と日浦の境にある御殿山に居を構え、付近の蝦夷を統率していた。蝦夷の大乱の起る前、或事から戸井の和人と蝦夷との間に軋轢を生じ、コシャマインが館を攻撃してきた。館主岡部某は兵を浜中に出し、これに抗戦したが、衆寡敵せず蝦夷の毒矢に当って死ぬ者が多かった。館に引揚げた館主は、財宝を館の傍にあった井戸に投じ、蓋(ふた)をし、奮戦して戦死し、館は間もなく陥落した。
館主岡部氏は、館の東の島(砂洲)にある三基の石に対して、毎朝拝礼していた。何故この石を礼拝するのかは、誰も知る者がなかった。館が陥落してから年経て、村民は昔を偲び、館の傍を流れる宮川のほとりに神祠を建て、名を宮川大明神と呼び、村民が崇拝するようになった。以上が館とこれにまつわる伝説の概要である。
郷土史資料調査に当り、館主の礼拝したという伝説の三基の石が、どこにあるものと考え、さがした結果、〓宇美家の三号漁場の後の丘に祀っていた祠の場所で、二基の石を発見した。〓家の子孫に尋ねたところ、先祖が川から拾い上げて祀ったということなので、伝説の三基のうちの二基であろうと推定した。更に尋ねたところ、この石は川口の海の中に埋もれていたものを拾ったとのことである。その付近にもう一基の石が埋っているものと思われる。〓家ではこの石を「法華の石」と称していたとのことである。
発見当時この石を調べて見たが、絵も文字も刻んでいない自然石だと思っていた。ところが一年以上経過してから、村人の一人が「何か文字が刻まれている」と知らせてきた。いくら見ても、拓本をとっても刻面が風化して読めず、板碑らしいと考えて須藤隆仙氏に照会したものである。
去る十一月二十三日、二十四日、熊別貝塚発掘の際、千代肇、白山友正氏が来村したのでこのことを話し、石碑を見てもらった。千代氏が「倒れている石碑にも何か刻まれているのではないか」というので、十一月二十五日掘り出して調べて見たところ意外にもこの石も板碑であった。(中略)私はこの石を“戸井発祥の石”と名づけていた」
つまり板碑が二基発見されたわけである。私は早速この二基を調べた。調査結果は後述の通りである。
さて函館に帰った私は毎日毎日とってきた拓本とにらめっこである。私の拓本とりは全くの我流で、油墨も使わぬし、背中を流すスポンジを持ち出したり、セロテープを使ったり、独特のやり方だが、文字などは実によく出るのである。とっているそばで野呂先生が盛んに感心されるものだから、私のこの我流を伝授してきた。先生大変喜んで、早速その方法でやられ、幾枚もいいものをとっておられる。
それはともかく、私はどうしても今一度実物に当って、年号を確めたいと思い、二十九日またヒョッコリ日新中学校を訪れた。ところが不思議なことに、野呂先生が今朝三基目を発見し、いまその報告を書いて投函しようとしていたところです、といって、私にあてた大型の封筒を切って、中から私あての手紙と拓本とを取り出して渡された。手紙は次のようなものであった。
「(前略)とことんまで追求しなければ気のすまない私の性分から、伝説の三基目が、既発見のあたりにあるものと考え、宮川の川口付近をさがしたところ、それらしい石の破片を発見しました。石工が四片位にわって石垣の土台を使ったらしいです。割った一番上部の部分が刻面を正面に向けて積まれたものらしいです。早速拓本をとってみたところ、二ケの石と同様 (既発見の分) 頭の部分に細い刻線が二本、かすかに現われました。その同じ石の破片と思われる石質のものが四ケ位積まれていますが、残念ながら高い石垣の最下部に積まれているため取出すことは不可能です。取り出してこの石を合わせたら明確になると思います(後略)」
[道南地図]
以上のような次第で、不確実ではあるが、それらしい石垣の中に積まれたものも含めれば碑は三基発見されたことになるのである。以下その碑の内容について記す。
便宜上、発見の順序に、A碑、B碑、C碑として述べていく。
A碑について
この碑は長さ約一一〇センチ、中央部の巾約四〇センチ、同じく厚さ約一七センチで、図のようなものである。上の飾り様のものを天蓋(てんがい)といゝ、下の花模様を蓮台(れんだい)という。円を月輪(がつりん)という。(月輪は須弥山の半腹にありとされ、密教では我が心即ち月輪の如しと観ずる阿字観を月輪観といい諸仏・字輪を観ずるにも先ずこれをなすことになっている。)
[碑]
月輪の中の字を梵字(ぼんじ)といゝ悉曇(しったん)ともいっている。梵天の所製になるというので梵字というが、西紀前八百年頃、インドの商人がメソポタミア地方在住のアラメイック人と接触しその結果セミテイックの二十二字からなる字母をインドに伝え、それがバラモンなどによって整理されて出来たものとされ、更にそれが北方系と南方系とに分れ、北方系から掘多(グプタ)文字が生まれ、それから更に悉曇文字が生まれ、中国や日本にも仏教と共に伝えられたのである。現在でも仏家は塔婆などに用いているが、しかしこれは時代や人によって若干の変化があり、特に板碑に刻まれているものには、独特の手法があるから、余程専門的にやらぬと的確に読めるものではない。例えば板碑の中で最も多く刻まれているキリークという字にしても、次のように様々である。
[梵字]
これらは関東地方の、つまり板碑の本場の模範的ものであるが、地方にくると、まことにまずい梵字がいくらもある。
いまこの碑のものは二字の梵字が刻まれており、板碑の研究者はこういうのを「二尊種子(しゅじ)板碑」などと呼んでいる。いかにもエゾ地生まれを感じさせるまずい梵字であるが、上はキリーク〓で、下は磨滅ひどく判読困難である。ところで「種子(しゅじ)」というのは、梵字のことであるが、この字一字で無量の意味を現わすに用い、例えばこのキリークを書くと直ちに阿弥陀仏全体の意味になるので、植物が一粒の種から無量の実を結ぶのにたとえて、これを種子といっているのである。種子は板碑だけでなしに、いろ/\の仏具や他の塔婆などにも盛んに使われる。
二尊種子の例を少し上げれば次のようなのがある。
[梵字]
これらは大部花文字化されているので、素人では判断できぬ場合があり、誤読の恐れもある。であるから種子の読み方はよほど専門的にやらねばならない。A碑のは次のようになっている。
[梵字]
とにかく下の字はもう少し調べてみなければ確信はできない。またこれをバーンク(金剛界大日)でないかといった人があるが、断じてバーンクではない。実物も見ず拓本もとったことのない人が勝手なことをいうのだから困る。
次に碑文であるが、これは随分入念に調べてみたが、残念ながら年号らしいものが読みとれなかった。四行に書かれており、四行目の半程から下に細字で二行になっている。こゝに年号がないかと思ってよく調べたが、「大光」あるいは「文光」らしきものが読みとれるが上を大とすれば「大永」という年号があるが、すると下は永ではなく、上を文とすれば文治・文暦・文応・文永・文安その他まだ/\たくさんあるが、下の字との関係であてはまるものがない。干支らしきものも確認されない。
大きい字では「海家堂」が一行目に、二行目には「善根」、三行目には「長父母」、四行目は「信」と「夢」らしく見える。三行目には「恩酬」らしきものも見えるから、それも加えてみれば次のようなことになる。(?は確信できぬもの)
□海家堂□(?)
善根□□(?)□(?)□(?)
恩酬長父母□(?)
信(?)□夢(?)大(?)光(?)…
………
これを「苦海家営善根功徳、楽土長父母大夢」などと試読をしてみるとした人があったが、こういうのは試読といわずに誤読というのである。というのは読み易いところだけを綴ったのでは字が抜けてくるし、苦(○)だの功徳(○○)だの楽土(○○)だの、明らかにそれでない字を無理にくっつけたのでは、実物から遊離した空想になってしまうからである。
建立者については後に詳述するが、銘文上に確認されぬ限り、誰が建てたということはできない。白山氏は盛んに岡部のたれそれが建てたといっているが、それは単なる想像で確証のあるものでない。
次にB碑に移る。
B碑について
B碑は長さ一ばん長いところで約一二〇センチ、中央部の巾約四二センチ、同じく厚さ約一八センチのもので、図のようなものである。
[碑]
天蓋や蓮台はA碑と同じようなものである。月輪の中に五つの種子が刻まれている。これは以下に述べるように金剛界曼茶羅(まんだら)の中心部を表わすもので、極めて勝れた着想である。碑文は「一切衆生」だけが確認される。(衆が〓という略字が使われ、これは本州の多くの板碑に見られる略字である)ほかに細い字がいくつもあるらしいのだが残念ながらすっかり磨滅して読みとることができない。これも後詳述するが、A碑とB碑とでは文字体が大部違うのである。A碑はたいへんな達筆であり、B碑のそれはへたくそな、それこそ金釘流である。これは両者別々に建立された形跡があるので、今後研究上注意しなければならない。
年号らしいものがあるのだが、残念ながらこれも読めない。「年」らしいものが感じられ「安」らしいものも感じられ、幾度か拓本をとるうちに弘安のように感じられたこともある。もし弘安(一二七八~一二八七)とすれば、鎌倉時代のもので大変なものになるのだが、碑全体の感じや、種子の粗末さから、鎌倉期とするにはクビをかしげなければならぬし、弘安というのも感じだけで、やはり違うようだ。
五尊種子については群馬県甘楽郡福島町に
[梵字]
とタテ一列に刻んだものがあり、埼玉県比企郡菅谷村に中央上からバン・ウーン・タラーク、右にキリーク、左にアクを記したものがある。
いまこのB碑のものは金剛界曼茶羅の中心部を表わしたものである。金剛界曼茶羅は九会(くえ)曼茶羅ともいって、中心に成身(じょうしん)会、その上から右廻りに一印会、理趣会、降三世羯磨(かつま)会、降三世三味耶(さんまや)会、三昧耶会、微(み)細会、供養会、四(し)印会、と九会が配され、一四六一体が描かれている。このうち成身会だけをとり出して一幅として成身会曼茶羅といっている。成身会というのは次のようなものである。
[成身会]
煩雑になるので記入しないが、無量の周りには上から右廻りに語・因・法・利、不空の周りには護・挙・牙・業、阿〓の周りには薩埵・王・喜・愛、宝生の周りには幢・宝・光・笑、中央の大日の周りには宝・羯磨・金剛・法、と、それぞれつくのである
「無量」というのは無量寿如来、即ち阿弥陀仏のことである。それでこれをわかり易くすると、下図のようになる。
[図]
これを種子で現わすと右図のようになる。ところが戸井町のこのB碑は左図のようになっている。どこが違っているかといえば、右の一字に点‥がないだけである。それもよく見ると点らしきものがあるから、これは間違いなく不空成就〓の種子である。(もし〓だとすると胎蔵界大日になってしまう。金剛界五仏に胎蔵界大日は入らないから、これは明らかに不空成就のアクである。)ただこゝでいま一つ考えてみなければならぬのは、作者がアクをアに誤記したということである。‥の確認が困難である場合、一応それがないとして考えてみよう。多く仏像を刻んで有名な円空は、その背によく種子を墨書したものだが、それがなんと間違っているものがいくつもある。これは致し方ないことで、梵字は右のように点一つでも意味が変ってくるから、そのための辞書でも側において書かねば間違うのである。年代が下ると板碑にもあやし(○○○)げな種子や、間違った種子が登場してくる。それだけではない。最近某所で真言宗の大僧正を招いて講習会を開き、悉曇の講義をしてもらった。ところがそれに随分間違いがあって、仏教大学の梵語の博士から指摘された。かくの如く梵字はなかなかにやっかいなものである。B碑の場合右横はアクである。
[図]
これを正しく読むには、先づ、作者がなんのために何仏をかこうとしたか、その底意を十分に調べてみなければならない。
いまこの戸井のB碑は、右に述べた金剛界曼茶羅の中心部・成身会を書いて刻んだのである。随って種子は図のように中央がバン、上から右廻りにキリーク・アク・ウーン・タラークである。
尚このB碑について、種子は中央ユ(弥勒(みろく))、上から右へキリーク(弥陀(みだ))、ア(大日(たいにち))、ウーン(阿〓(あしゅく))、タラーク(虚空蔵)だろうとし、それぞれの仏は年忌供養になるとして、六七日忌(弥勒)、三国忌(弥陀)、十七回忌(大日)、七回忌(阿〓)、丗三回忌(虚空蔵)、とし、岡部一家の先祖の年忌供養の碑だ、といった人がある。これは誠に滑稽な話で、全く仏教を知らぬ人が、勝手にいゝ出したことで、困った俗説であり、デタラメである。
まず種子についてであるが、中央をユとみるというのである。ユとは〓である。拓本でも、又は実物でもよく解るが、中央の字はバンであるから下が〓とのび、そのすぐ下にウーンの〓(頭部)がきている。ユだとすると〓がなければならぬが、そんなものはどこにもない。いくらなんでもこれをユと読むわけにはいかない。また右のア、アクの関係はすでに述べた通りである。これを年忌の塔とみたのは、生カジリの仏教知識を紹介してもらった結果であろう。例えば年忌の本尊は大日は十三(○)回忌である。それを十七(○)回忌などとしているのだから滑稽である。中陰(六七日)と年忌を一緒にした建立意はないから、これは年忌の供養碑ではない。(中陰と年忌の法事の本尊を記したものは十三仏碑であり、これは総べて「逆修」塔【自分で自分の冥福を祈ったもの】である。例えば埼玉県上里村の十三仏板碑には「逆修□□禅尼永享」とあり、同東松山市のそれには「逆修見高大姉」とある)逆修十三仏は初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日、百ケ日、一年、三年、七年、十三年、丗三年で、それぞれ不動、釈迦、文殊、普賢、地蔵、弥勤、薬師、観音、勢至、阿弥陀、阿〓、大日、虚空蔵となる。しかし前記のようにこのB碑は忌追善ではなく、金剛界五仏を以って逆修意にしたものであって、年忌法要の本尊などと見べきものでない。又左の〓は虚空蔵(宝光虚空蔵)と宝生如来とに共通する種子であるが、B碑の場合、五仏であるから、虚空蔵菩薩ではなく宝生如来に見べきであって、こういう仏教の常識を知らぬと、前記の異論者のようなデタラメ説が出てくるのである。
C碑について
C碑というのは実に疑問のあるもので、先きの野呂先生の一文にある如く、石垣の中の一つの石となっているものだから、これをいまの段階で、直ちにA碑、B碑と並ぶ板碑とするのは早計である。掘り出してみないことには何ともいわれないからである。野呂先生に案内されて該石垣を見たが、確かに他の石とは違ってみえる板碑の片割れのような石があるのは事実である。しかしそれは板碑であるかも知れぬし、又ないかも知れぬ。とにかく掘り出してみないとわからない。
だから私はこれを「板碑らしきもの」としておきたい。野呂氏の拓本では、かすかに上に二本の線があるらしく、その下に〓のようなものが、感じられるといえば感じられる程度だが、白山氏はこれを「光輪碑」だの「阿字碑」だのといった。とんでもない。こんなクラゲの化物のような光輪はどこにもないのである。それにこの碑は外にもキズがたくさんあって、見ようによっては全く別の陰刻にも見えるから、碑文や梵字などが確認されぬうちに板碑と決定してしまうのは学究者のとるべき態度ではない。
おわりに(結び)
以上のような次第で、戸井町の三基のうち、A・Bの二基は間違いなく板碑であるが、C碑は「板碑らしきもの」であって、決定は石垣の中から掘り出して詳しく調査してから下すべきものである。
さて残る問題として、この碑はいつ頃、誰が建てたかということである。(建立年代)については年号が確認されぬから不明であるが、梵字、天蓋、蓮台などの書きかたから、室町時代のものと推定する。その理由としては、①種子が粗雑であること、②天蓋が細線彫りであること、③蓮台の瓣が菊花のように細いこと、などが上げられる。そしてさらに付言すれば、天蓋の描き方などが函館称名寺にある貞治六年(一三六七)の碑と似ているから、ほゞ同時代のものと見てよいであろう。(蓮台の描き方も酷似する)全国板碑の分布として、函館と戸井のものは『北海道型」といってよいであろう。
称名寺板碑の天蓋 同 蓮台
(建立者について)は、先きにも記したとおり、銘文中に確認されぬから、不明というより外ない。岡部某が礼拝していたという伝説にしても、果してそれが五百年近くも前から伝承された伝説であるか否かは甚だ疑わしい。伝説というものは事物に付して説明的に作り上げられるものがあるからである。特に白山氏のように岡部の何代目が云々ということは差し控えたい。たとえば市川十郎の『蝦夷実地検考録』には、運悪く戸井あたりの部分が欠本になっているが.後日発見でもされて、あの周到な十郎のことであるから、その中に碑文を記しているかも知れない。建立者を決定するのは、それからでも遅くないのである。それに板碑というものは、誰でも建てられる可能性のあるものである。必ずしも岡部と結びつけなくとも、庶民文化の所産として十二分の存在なのである。とにかく私としては目下のところ建立者は不明としておきたい。強いて岡部と関係づけるには、岡部なるものの存在を深く深く考究せねば問題にならないのである。(これについて調べている史料があるが、それは立場を別にして論じたい)
この碑の発見によって、函館の貞治六年の板碑、志海苔の古銭などと共に、道南東部海岸への和人定住の歴史が、より一層鮮明になりつゝあり、それはまた、北海道史、否、和朝文化史の北限を語る重要な転機が訪れつゝあることを知るものでもある。
(昭和四四年三月十五日)