慶応三年(一八六七)十月十四日徳川幕府が大政を朝廷に奉還し、慶応四年九月八日明治と改元され、明治政府が誕生した。
徳川幕府の恩顧を思い、薩長藩閥による明治新政府に不満を抱く旧幕臣榎本釜次郎、土方歳三、大鳥圭介等が旧幕府の軍艦を奪い、軍兵を率えて江戸から蝦夷地に脱走した。脱走軍は明治元年十月二十日、内浦湾沿岸の森村(現森町)鷲の木に上陸し、五稜郭に向って進撃した。脱走軍は二隊に分れ、一隊は本道を南下し、他の一隊は川汲山道を越えて南下した。
この日、明治新政府の命をうけた備後の福山藩、越前の大野藩の軍兵が箱館に到着した。脱走軍が森村から進撃しているとの報を受け、大野村、七重村に迎撃する策をたて、それぞれ軍兵を配置した。
こうして十月二十二日から、大野、峠下、七重、大川等で戦闘が始まった。四日間の戦闘で官軍が敗れ、十月二十六日、脱走軍が明治新政府の蝦夷地統治の本拠五稜郭を占領した。
十二月、脱走軍は榎本釜次郎を総裁に選び、政令を公布して蝦夷地の領有を宣言した。
翌明治二年四月以降、明治新政府は、海陸両面から総攻撃を加えた。脱走軍は各所の戦闘に敗れ、五月十八日、脱走軍が降伏して箱館戦争が終結した。この戦闘で土方歳三が戦死した。
榎本政府は僅か四ヶ月で終り、榎本釜次郎、大鳥圭介等は捕えられて江戸に送られた。明治政府の高官たちが「榎本は賊軍の首領として、死罪に処すべきだ」と主張したが、黒田清隆が榎本の人物を惜み、ただ一人助命を主張し、明治天皇の裁断で榎本は死罪を免れたのである。
黒田清隆が開拓使次官になるや、榎本を開拓使の役人に登用した。明治五年七月、榎本は開拓使四等出仕として、鉱物その他の資源調査のため下海岸一帯を視察した。又榎本は明治七年鱈の肝油の試作のため約一ヶ月尻岸内村に滞在した。
明治五年と七年の二度に亘り、開拓使の役人として下海岸を訪れた榎本武揚は、村々の旧家や村役人の家に宿泊した。下海岸の旧家から発見される榎本武揚の書は、この時に書き与えたものと思われる。
明治二年、榎本軍が官軍の総攻撃を受けて降伏する前や降伏してから、ちりぢりになって下海岸や蔭海岸に逃れ、民家に隠れていたという言い伝えが各所にある。
榎本軍に従軍していた渋沢栄一が、小安か釜谷の某家にかくまわれていたという言い伝えがある。
又降伏前に榎本軍の兵士が三人逃れて来て、汐首の〓松田家に隠れていたが、明治二年五月十一日に「いろいろ御世話になったが、五稜郭へ戻る。生きていたら必ず御礼に来る。若し来なかったら死んだものと思い、五月十一日を我々の命日と思ってくれ」と、〓の妻女に言い残して汐首を去って行った。
戦争は終っても三人は遂に姿を見せなかったので、〓の妻女は、五月十一日を三人の命日として、一生その人たちの供養をしたと伝えられている。
三人が汐首を去った一週間後の五月十八日に榎本軍が降伏したので、三人とも戦死したものか、戦後捕えられて処刑されたものか不明である。 (境市正談)
明治戦争の始まる数ヶ月前に、全国の村々の制札場に次のような「太政官布告」が掲示された。
定
一、人たる者、五倫(ごりん)の道を正しくすべき事
一、鱞寡(かんか)、孤独(こどく)、廃疾(はいしつ)の者を憫(あわれ)むべき事
一、人を殺し、家を焼き、財を盗む等の悪業あるまじき事
慶応四年三月
定
一、何事によらず、宜(よろ)しからざる事に、大勢申し合わせ候を徒党(ととう)と称え、徒党(ととう)して強(し)いて願い事を企つるを強訴(ごうそ)という。或は申し合わせ、居町居村を立ち退き候を、諜散(ちょうさん)と申し候。
堅く御法度(ごはっと)なり。若し右の類の儀これあらば、早く其の筋の役所に申し出づべし。御褒美(ごほうび)下さるべき事。
慶応四年三月
定
一、切支丹(きりしたん)宗門の儀、是まで御制禁(せいきん)の通り、固く相守り候事
一、邪宗門の儀は固く禁止の事
慶応四年三月
この太政官布告が、箱館を始め、道南各地の制札場に掲げられ、キリシタンの禁制が強化された。慶応四年九月八日、明治と改元され、十月二十六日榎本軍が五稜郭を占領して、新政権を樹立してから、明治新政府の太政官布告の制札を全部撤去した。五稜郭攻めの榎本軍の兵学顧問として仏人スラント、フヒーフ、プリユネなどが参加していた。