二、二代戸長 松代(まつしろ)孫兵衛

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松代孫兵衛

 明治十八年(一八八五)に退任した初代戸長飯田東一郎の後任として、二代戸長に就任したのが松代孫兵衛である。孫兵衛は天保十三年(一八四二)六月四日、石崎村の旧家、松代家の四代目、松代孫右衛門の長男として生れ、祖父孫兵衛が死去するまで市蔵を名とした。
 慶応元年(一八六五)六月四日、父孫右衛門歿後、家督を継ぎ、明治十五年(一八八二)十一月三日、祖父二代目孫兵衛が八十八才で死去後、孫兵衛を襲名し、市蔵を孫兵衛と改名した。石崎松代家の五代目であり、孫兵衛としては三代目である。この時三代孫兵衛は四十一才であった。
 市蔵は幼ない時から学問を好み、七才の時から七ヶ年間、石崎村の小林左右平(さうへい)の寺子屋に学んだ。この頃小安村字釜谷の〓吉田大吉も同じ寺子屋で机を並べて学んだのである。寺子屋で七ケ年の課程を卒えた市蔵は、箱館に出て代島剛平の学塾に通うこと二ケ年、ここで漢字と史籍を学んだ。代島剛平の学塾を卒えて、石崎に帰った市蔵は、村人たちに懇望されて、自宅で寺子屋を開いた。こうして市蔵は安政六年(一八五九)十七才の時から、文久三年(一八六三)二十二才の時まで五ヶ年間、石崎村や近隣の子弟の指導をしたのである。
 市蔵は父の歿する二年前から寺子屋をやめて家業に精励し、明治十五年祖父の死後、孫兵衛を襲名した。松代家はこの頃既に下海岸屈指の資産家になっていた。
 孫兵衛を襲名して三年目の明治十八年に、戸井村外一村の初代戸長飯田東一郎が退任し、孫兵衛はその学識、徳望によって官民から懇望され、二代戸長に任命された。
 孫兵衛は初代飯田戸長の後を継いで村治に精励し、学者戸長として名声が高かった。孫兵衛は満二ヶ年間戸長を勤め、明治二十年(一八八七)退任したが、三県時代の末期から北海道庁時代の初期で、行政機構の改革の過渡期でいろいろな苦労があった。戸長を永く勤めていては家業がおろそかになるということと、道庁時代にはいって官僚統制の厳しさを嫌った孫兵衛は、官から再任の希望もあったが、それを振り切って退任し、家業に専念することになったのである。この時孫兵衛は四十七才であった。
 戸長を退いてからも、いろいろな役職につき、大正三年(一九一四)二月四日七十三才で病歿し、長男覚蔵が松代家の六代目を継いだ。
 孫右衛門の二男、即ち孫兵衛の弟は隣村銭亀沢村の旧家、〓姥子家に養子に行き、家督を継ぎ、先祖代々の太郎左衛門を襲名した。〓姥子家は代々名主を勤めた家柄である。孫兵衛の弟、姥子太郎左衛門は、家督を継いでから銭亀沢村外三村(銭亀沢、亀尾石崎、志海苔)の戸長に任命され、同じ時代に兄弟二人が戸長を勤めたのである。
 松代家の祖先は長野県松代の出身といわれ、故あって下北の佐井に移住し、石崎松代家の祖金沢屋孫兵衛は石崎に渡り、弟伊兵衛は箱館に渡り、両家とも繁栄した。二代孫兵衛、二代伊兵衛は共に船大工続豊次と親交があり、豊次が高田屋の没落に遇って船大工をやめ、仏壇師になっていた期間に、石崎松代家、箱館松代家に、同じ型の仏壇を造って納めた。
 石崎松代家に納めた仏壇の欄間の彫刻に
 「嘉永四年(一八五一)十二月吉日彫工豊次五十三年」という墨書銘がある。
 両松代家に仏壇を納めた嘉永四年には、石崎松代孫兵衛は五十六才、箱館松代伊兵衛は四十三才、三代孫兵衛を襲名した市蔵は九才であった。この時代が両松代家の全盛時代であった。
 松代脩也(現小安小学校長)の父母が「祖母(二代松代伊兵衛の長女リセ)が、この家を建てた人が来年仏壇を持って来る」と語っていたという。このことから続豊次は、嘉永二、三年頃松代家の家屋を建て、嘉永四年に仏壇を持って来たことが推定される。功成り名遂げた二代孫兵衛が弘化三年(一八四六)に歿しているので初代孫兵衛の三回忌あたりに、続豊次に家屋を建築させ、同時に仏壇の製作を依頼し、盛大に先祖供養のための法事を営んだものであろう。この家屋と仏壇は、現在松代脩也の所有となり石崎にある。
 家屋も仏壇も有名な船大工続豊次の造ったものとして重要文化財として保存の方途を講ずべきであろう。
 箱館の二代松代伊兵衛に納めた同型の仏壇は、現在大野町に居住している伊兵衛直系の子孫の家に伝えられている。