戸井漁業組合についてはその設立年代は明らかでないが、次の資料により明治三〇年以前には既に組合が設立されていたことが立証されるのである。
即ち、明治三〇年四月一〇日付で函館綿糸漁網商の高倉儀兵衛より「麻苧網より綿糸網への過渡期に於ける調査依頼文」が戸井漁業組合宛に出されており、更に明治三〇年九月二五日付で、亀田郡戸井村字館鼻二三番地の梅原政治郎が戸井町字浜中の漁業組合頭取山崎金太郎と戸井村共有地管理者海産物干場貸主である戸長音羽薫の連署で「昆布採取及び製造兼業願」を亀田外三郡長木村広凱に提出していることなど、戸井漁業組合の文字が文献の各所に見受けられるのである。
戸井村漁業組合規約(明治三二年頃のもの)によれば
第一条 本組合ヲ戸井村漁業組合ト称シ戸井村在籍漁業者ヲ以テ組織ス。
第二条 本組合区域ハ亀田郡小安村界以東、尻岸内村界ニ至ル海面全体ヲ以テ当組合所属海面トナシ該海面ニ於テ本規約ノ効力ヲ有スルモノトス。
第三条 本組合事務所ヲ亀田郡戸井村字館鼻二三番地ニ置ク。
第四条 本組合ノ目的ハ北海道漁業取締規則ヲ遵守シ同業者一致協力シ漁業ノ弊害ヲ矯正シ後来漁業ノ発達ト物産ノ改良ヲ謀リ組合一般ノ福利ヲ増進スルニアリ。………………(以下省略)
とある如く、戸井村漁業組合の組織、操業正域、事務所及び目的などが明確に記されており、当時の概要を知ることができる。
明治三四年(一九〇一)には漁業法が制定されて漁場の利用制度が規定され、全国の漁業組合がその管理主体となっている。
この戸井村漁業組合と併行して存在したのが「亀田水産営業人組合」で、水産物の検査や漁業権の管理などを主とした水産指導に当っていた。明治三三年九月には戸井町字釜谷の〓吉田大吉が、多年組合業務に勉励した功により、亀田水産人営業組合(当時の組合長は松代孫兵衛)より表彰を受け、高橋泥舟の書を贈られている。
明治三五年から明治四三年(毎年一〇月以降)にかけては鰮の大漁が続き戸井村の黄金時代が現出している。漁閑期(毎年四月から九月下旬)には樺太、厚岸などで鰊漁業に従亊するための出稼ぎが盛んであった。
次に戸井村漁業組合の経営状態などについて金沢藤吉老(元道議会議員、漁業組合長、現在函館市内在住)の語るところをまとめてみよう。
当時の戸井村漁業組合の経営状態は誠に低調なものであった。組合の主たる業務の目的は昆布の専問漁業権の管理であり、現在の漁業協同組合のように漁村経済の中核的存在として漁民の福利厚生をめざすものではなく、従って漁民の協力も消極的なもので、組合の存続のための資金にも困窮する程であった。
組合の役員達もその債務の責めを負うことを恐れて辞職し、当時の戸井村長足達啓太郎(昭和六年九月から昭和九年二月まで存在)が戸井村漁業組合長の職務を代行する状態であった。
専任の職員は書記としての斉藤幹太郎が一名で、その事務所は戸井村役場内(戸井村館鼻一番地)に置かれた。
組合の財産も組合員名簿と古い五号金庫が一個あるだけだといわれる。
組合職員に支払われる給料も満足に出ず、書記の仕事は自分の給料を得るために組合員から負担金を集めるべく村内を駆けまわることだった。
〓金沢玉蔵(当時戸井村村会議員)は、この組合の程営不振からその組合自体の体制改善を計画し、金沢藤吉に再建を依頼した。
金沢藤吉(当時二七才)はその依頼を引受けて組合長に就任したが、組合財産として引継いだものは現金七円五〇銭、遭難救血金二〇円と前記金庫だけであった。事務所は戸井村役場庁舎内に置かれ、会計係として瀬田来の石田源次郎がその任に当った。
小安漁業協同組合
東戸井漁業協同組合
戸井西部漁業協同組合
[東戸井漁業協同組合]