三 蠣崎の錦帯城趾の伝説(川内町)

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 享徳、康正の昔、下北郡川内町大字蠣崎に、蠣崎蔵人信純の居城錦帯城があった。
 この頃の宿野辺(しゅくのべ)は車返宿、川内は内桧川と呼ばれ内桧川には目代所が置かれていた。蠣崎信純は松前藩の始祖蠣崎信広といわれている人物である。
 南部氏の記録によると、康正二年(一四五六)蠣崎信純は、南朝の後村上(ごむらかみ)天皇の血をひく、北部王家(きたべおうけ)五代義純のたてこもっている鶴崎山順法寺城(北の御本城と称した。場所は今の城ケ沢である)を襲撃し、義純を殺した。北部王家の後楯(うしろだて)をしていた、八戸の根城(ねじょう)南部政経が、ひそかに大軍を奥戸(おこっぺ)に集め、山越えして錦帯城の背後に出、夜間を待って奇襲攻撃を敢行した。
 不意を討たれた信純は、戦わずして敗れ、錦帯城を捨て、僅かの従者を連れて、地下道から城を逃れ、大畑に走って、康正三年(一四五七)二月二十五日、船に乗じて蝦夷地に逃れ、奥尻島に漂着した。この時安東政季も別な船で蝦夷地に逃れた。
 これが南部氏の記録による蠣崎信純渡島の経緯(けいい)であるが、松前氏の記録では、大畑よりの信広の船出が、享徳三年(一四五四)八月二十八日となっており、南部氏の記録にある康正三年(一四五七)と三年の食い違いがある。康正三年の九月二十八日に長禄と改元になり、この年、コシャマインの乱を平定しているので、南部氏の記録が正しいとすれば、信純(後の信広)は渡島間もなくコシャマインの乱を平定したことになる。
 何れにしても、南部政経に攻められて錦帯城を逃れ大畑から松前に渡った蠣崎信純が後の信広であることは確かだと思われるので、松前家の先祖の発祥地は下北郡川内町大字蠣崎である。
 松前城(昔の大館)のあったところを七面山というが、蠣崎の錦帯城のあったところも七面山である。
 錦帯城趾から約一、五キロメートル東方の海岸に今でも、殿崎という地名があるが、信純がここにいた頃、ここに城主の別邸(べってい)があったところと伝えられ、信純の栄えた頃は錦帯城から殿崎の別邸まで、広い街道が開け、街道の内側に松並木があり、この道を城主が行列を組んで往復したと伝えられている。
 川内町の字香の木の畑の中に、昔樹高二十米に達する杉の巨木があり、この大杉は信純の姫君が植えたものと伝えられ、姫子松あるいは姫子杉と呼ばれていたが、明治三十年頃、地主干場(かんば)某が畑のじゃまになるというので切り倒した。ところが間もなく干場は狂人になったという。干場の家族は姫子杉のたたりだといって恐れ、切り株の近くに祠を建てて祀ったという。
 蠣崎地区の長浜海岸一帯に錦石(にしきいし)といわれる名物の石がある。
 川内町は松前の殿様の先祖の発祥地であり、有名な船大工続豊次の父の出身地であり、戸井町出身の元道会議員金沢藤吉の先祖の故郷でもある。