天正十八年(一五九〇)蠣崎慶広が豊臣秀吉から蝦夷地の領有権を認められる以前を蝦夷時代とした。この時代は戸井には和人の居住する者が極めて少なく、人間といえば殆んどアイヌと称された蝦夷だけが住んでいた。蝦夷は川辺や海岸近くに堀立小屋を作って住み、各コタンは酋長が統治し、和人の支配権力が全然及ばなかった時代である。
蝦夷には物事を表示する簡単な符号があったらしいが、それによって事蹟や事件を記録するという生活や文化がなかった。記録するかわりに物語り(昔話)、歌謡(ユーカラ)として、子々孫々に語り継がれ、歌い継がれたのである。蝦夷が後世に伝えたものは伝説やユーカラの外に、言語そのものと彼等の住んでいた地域に名づけた地名である。
こういう状態であったため、蝦夷地に渡った和人の事蹟を蝦夷の残したもので知ることはできない。和人渡来の初期のものとして蝦夷の伝えたものといいば、小山四郎隆政の事蹟、後世になって附会脚色された義経、弁慶伝説、戸井の地名岡部殿澗(おかべとのま)(後世オカベトマリ、オカベマなどと変化した)など、断片的なものだけである。
松前家の祖、武田信広が渡島直後に起った道南の大事件コシャマインの乱すら、蝦夷の伝えたものでは何一つうかがい知ることができないのである。
コシャマインの乱は長禄元年(一四五七)であるが、この時代の事蹟を調べる文献は、松前藩が藩内の学者に命じて書かせた『新羅之記録』『松前年代記』や安東氏、南部氏の諸記録である。然し道南最古の文献である『新羅之記録』ですら、寛永二十年(一六四三)幕府に奉るために慶広の六男景広が編纂したもので、コシャマインの乱から一八七年の年月を経過した時点のものである。『松前年代記』は『福山秘府』の資料の一つになった文献であるが、これは松前藩の始祖武田信広時代から寛文七年(一六六七)までの事蹟や事件を記録したものである。これらの諸文献は松前家の系譜や松前家に関係のある事蹟や事件がくわしく記述されているが、戸井を含めた下海岸の事蹟や事件については殆んど記録されていない。コシャマインの乱或はそれ以前に岡部某が戸井に館を築いていたことも、蝦夷の襲撃を受けて滅びたことも全然と書かれていない。
松前藩が公的に編纂したもの、或は個人が書いた私的な史書等はすべて松前家中心のものなので、僻遠の地の事蹟や事件は殆んど記述されていない。又嘉吉年間(一四四一―一四四三)以前の記録は、『新羅之記録』にも『福山秘府』にもない。
長禄元年(一四五七)下北から渡島した蠣崎信広が、コシャマインの大乱を平定してからも、和人に対する蝦夷の反乱が繰り返され、松前藩はこれに手を焼いたのである。蝦夷の反乱時代は、和人の勢力範囲は松前を中心とした狭い地域で、蝦夷の勢力範囲は松前藩の勢力の及ぶ地域を除いた全島に及び、人口も和人より多く、はるかに優勢であった。
然し蝦夷より劣勢であった和人が、その武器と権謀術策によって、屢々(しばしば)蝦夷を敗り、松前藩が完全に蝦夷をその支配下においたのは、信広より五代目の蠣崎慶広が、豊臣秀吉から蝦夷地の領有権を与えられた天正十八年(一五八三)以降である。この年以降、松前藩の権力が漸次汐首岬以東に及び下海岸の事蹟や事件が記録に残るようになったのである。
戸井を含めた下海岸の発達は、天正十八年以降で、それ以前は全く蝦夷の歴史であった。コシャマインの乱から数えても百年以上蝦夷の勢力圏であったのである。
日本に在留したヤソ会士ルイス・フロイズが永禄八年(一五六五)二月二十付で本国へ書き送った手紙に、蝦夷地及び蝦夷について次のように記されている。
「日本国の北方殆んど北陸の直下に藩人の大いなる国あり。彼等は動物の毛皮を着し、毛全身に生じ、長き鬚髯あり。(中略)彼等のうちゲワ(出羽)の国の大いなる町アキタ(秋田)と称する日本の地に来り交易をなす者多し。」
北海道の蝦夷が毎年七、八月の頃に津軽海峡を越えて本州に来て交易していたことが他書にも散見する。これらのことから北海道の蝦夷は、海峡を渡る船を造り、和人との交易によって鉄器類はもちろん、和人の使った道具類がこのころから蝦夷地に普及したことが推定される。