この時代は明治新政府になった明治元年(一八六八)から開拓使の廃止された明治十四年(一八八一)までの十四年間である。
この時代の初期の道南における大事件は、旧幕軍と官軍との箱館戦争である。即ち旧幕府の恩顧を追憶して幕府時代に執着を感じ、明治新政府に不満を抱く旧幕臣等を率えた榎本釜次郎、大鳥圭介等が幕府の軍艦を奪い、その軍艦に分乗し、蝦夷地に立(た)て篭(こも)る計画をたて、明治元年十月、噴火湾(内浦湾)沿岸森村の鷲(わし)の木に上陸した。榎本軍は二隊に分かれ、大鳥圭介を長とする部隊を本隊とし、峠下を経て大野、七重(現在の七飯)から五稜郭を攻撃することとし、他の一部隊は援助部隊として土方(ひじかた)歳三を長とし、川汲山道を越えて、湯の川に出、五稜郭を東側から牽制(けんせい)する策を立てた。
脱走軍の二隊は策戦通り箱館に向って進撃し、大鳥の指揮する本隊は十月二十二日宿野辺(赤井川)に一泊し二十三日夜峠下村に至った。
この時箱館を守備していたのは、弘前藩五〇〇名、松前藩四〇〇名、福山藩(備後)五〇〇名で、その外に府兵三ケ小隊が五稜郭を守備していた。軍監は宮地正夫、手塚修平で、在住隊司令は黒沢伝之烝、三村平太郎であった。
箱館守備軍は、南下進撃する榎本軍を途中で迎え撃つ策を立て大野、七飯方面に進撃した。
両軍は十月二十四日、大野と七飯の二地域で遭遇し戦闘が開始された。この日は一日中雪が降り烈風が吹き荒れて猛吹雪となり、寒気きびしい天候であった。
大野方面の箱館軍は忽ち敗れて、函館、知内に走った。七飯方面の戦闘は七飯村鳴川から大川村一帯の地域で行われ、猛吹雪の中で早暁から日没まで激闘が繰り返されたが、大鳥隊の遊撃隊長大岡幸二郎等の決死の抜刀隊の逆襲によって箱館軍は大敗して大川村に退き、この地域で日没まで戦闘が繰り返され、箱館軍はちりぢりになて敗退した。
明けて十月二十五日、榎本軍は大野にあった兵を七飯に集結し、大川村から赤川村に通ずる道路を進撃して、この夜は神山村と赤川村に泊った。この夜川汲山道を越えて土方歳三の指揮する部隊が湯の川村に到着した。
二十六日五稜郭総攻撃の策戦を練り、村人に五稜郭の様子をさぐらせたところ、五稜郭内は寂(せき)として人無く、青森及び箱館方向に逃れたことを確かめ、この日一戦をも交えずして五稜郭を占領した。
明治元年十二月、脱走軍は榎本釜次郎(武揚)を総裁に選び、政令を公布して蝦夷地の領有を宣言した。
明けて明治二年、官軍は準備を整え、四月以降海陸から総攻撃を加えた。榎本軍は衆寡(しゅうか)敵せず、各所の戦闘に敗れ、部将土方歳三も箱館で戦死し、五稜郭にたてこもっていた榎本釜次郎が五月十八日降伏して箱館戦争が終結した。
旧幕臣や佐幕各藩の反乱抵抗は、榎本軍の降伏をもってすべて終り、明治新政府の威令のもとに、新時代が到来したのである。
箱館戦争が終った後、明治二年七月八日、蝦夷地に開拓使が設置され、同年九月二十六日(旧暦)蝦夷地を北海道と改称した。
開拓使の北海道拓殖計画の重点は幹線道路の改修であった。渡米してアメリカ各地を視察した開拓使次官黒田清隆はアメリカの農務卿ケプロン将軍始め技師を招聘(しょうへい)し、明治四年(一八七一)北海道開拓十ケ年計画を樹立し、翌明治五年から着々と実行に移され、開拓事業が一段と活潑になった。
黒田清隆は開拓使顧問ケプロン卿の進言により、将来札幌を北海道の首都にする構想から、函館と札幌を結ぶ新道の開削を計画し、明治五年に着工し、アメリカの道路に倣って巾の広い道路を開き、莫大な予算をかけて完成した。当時は不経済道路として非難を浴びたが、黒田は一〇〇年後の北海道を見通して強引に完成させたのである。この道路が現在の国道五号線であるが、さすがの黒田清隆も一〇〇年後には自動車時代になって、この道路が狭くなるということは予想もしなかったであろう。
この道路を開削する以前の明治二年九月、開拓使通路を改修した。即ち札幌、小樽間の道路、東海岸、道南路その他の幹線通路の改修を実施した。
その後これと並行して、東本願寺が開拓使に請願して、軍川、砂原間の新道延長四里半、江差街道、鶉(うずら)、大野間延長十一里半、札幌、尾去別間延長二十六里十町五間等の道路を明治三年七月乃至八月に着工して完成させた。これらの道路開削には莫大な費用を投じたが、すべて信徒の醵金によって賄(まかな)ったのである。これらの道路を東本願寺道路と称した。これらの道路は現在殆んど国道又は道道に昇格して立派な道路になっている。
又開拓使は道路の開削、改修の外に河川に橋梁を架設し、大河には渡し船を設置し、各村々には駅逓を設けて陸上交通を便にし、更に北海道沿岸及び北海道本州間の海運を盛んにした。開拓使時代は拓殖の動脈である道路の改修、開削に終始した時代であると言っても過言ではない。
ケプロン卿を招聘(しょうへい)して樹立した北海道拓殖計画の実施が一段落した明治十五年(一八八二)二月に開拓使が廃止された。