・三月七日 比羅夫丸・田村丸によって青函航路が開始される。
・三月八日 午後古武井浅田硫黄鉱山で雪崩が発生し、六棟十八戸が押しつぶされその後火災が発生する。このため死者男子十一名・女子十八名・重傷者男子二名・軽傷者女子二名が出る大惨事となる。
また同日、古武井双股旧鉱山でも雪崩による倒壊家屋があり、ここでも火災が発生し負傷者一名が出る。
・三月二十三日 椴法華沖の陸奥丸と秀吉丸の衝突。
古武井鉱山の大惨事の興奮もさめやらぬこの日午前二時、こんどは椴法華村沖合二海里(約三千七百メートル)の地点で、青森より室蘭に向け航行中の日本郵船所属陸奥丸(九百四十噸)と室蘭より函館へ向け航行中の金沢市の秀吉丸(六百九十二噸)が衝突し、陸奥丸が沈没乗客船員合計二百十一名が行方不明になるという大惨事が発生した。
明治四十一年三月二十四日の北海タイムス。この時第一報を次のように記している。
陸奥丸沈沒
溺死者三百五十名
郵船陸奥丸昨日午后六時青森出帆室蘭に向う途中今暁二時半渡島國椴法華二哩沖(にまいるおき)にて室蘭より來れる秀吉丸と衝突沈沒し船客二百四十二名乘組員船長以下約四十名の内九分通溺死す駿河丸今救援の爲め現場に向へり。
▲道廳への着電
二十三日午前二時頃郵船會社定期汽船陸奥丸と秀吉丸と本村二哩沖合にて衝突陸奥丸は午前三時頃沈没せり同船の船客二百六十名の内生存者三十名内外船員四十二名の内生存者十名計(ばか)り、又秀吉丸の損傷多少ありと亀田郡椴法華村戸長より報告あり右に基き遭難救助方を大湊要港部へ電請せり、猶(な)ほ救助の為め當地より駿河丸青森より肥後丸出帆せり(以下略)
陸奥丸船長河内實登、機関長土井松(マツ)次郎、一等運轉士鼻中國一なり
戸井町史は(要約)この時の様子を次のように記している。
(秀吉丸の船員が上陸して)救助船の出動を求められたので、巡査三輪亀三郎は消防組員を召集し、漁船三艘を出し、青年同志会は二艘を出し、村吏員と共に激浪を冒して救授に向い、秀吉丸に移乗した陸奥丸の船員及び負傷した乗客五名並に小児の屍体一体を乗せて帰港し大竜寺に収容した。戸長役場は衣類・夜具・食糧を給して救護の万全を期した。
(詳細は、第十三編二章海難を参照)
陸奥丸遭難 明治41年3月24日 小樽新聞
・六月十一日 古武井鉱山の大火。
この日午後三時三十分、尻岸内字古武井元山、山県硫黄鉱山鉱夫住宅から出火し、二十六棟、二十六戸を焼失する。この時幸にして死傷者なし。
・九月二十四日 恵山岬霧信号所業務開始。
恵山岬は海霧の発生しやすく潮流の変化の激しい所として、昔から船乗り達に知られており、一日も早く霧信号の設置が望まれていたが、遂にこの年に至り実現されることになったものである。
・次のこの年の村内景気はどのようなものであったろうか。日露戦争後の不景気風が国内をおおいはじめ、満州では馬鈴薯・大豆・えんばく等が大豊作であったため、日本国内の農産物は価格暴落をはじめ、これに伴い農家は肥料である魚粕を買い控えたため、魚粕(鰮粕・鰊粕)の値下りが起きていた。
・この年、石狩・天塩方面の鰊漁は不漁に終り、下海岸の鰮漁は豊漁であったが、鰊出稼はあまり収入にならず、地元の鰮漁も値が安く豊漁の割りには、暮らしは楽にならなかったようである。
・この年、漁価低落のため漁業収入が少なく、また畑作も不振であったため、村民の生活は例年にくらべて苦しかった。