和人の館

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新羅之記録』によれば、嘉吉二年(一四四二)秋、安東氏の居城十三湊は南部義政の攻撃を受け、このため安東盛季は小の柴館に逃げ、嘉吉三年(一四四三)十二月十日には小より蝦夷島に逃げ渡ったと記されている。更に同書によれば、享徳三年(一四五四)八月二十八日、下國安東政季は武田(蠣崎)信広、相原政胤、河野政道らを従え、南部大畑より蝦夷島に渡るという内容が記されている。
 これらのことより、南部氏との抗争に敗れた安東氏一族、あるいは、安東氏と深い関わりをもつ津軽地方の豪族が蝦夷地南部海岸に逃れ来て、漁業及び交易の拠点に館を構築したものと考えられる。