室町時代の末頃、東北地方の豪族である安東氏の代官として、入港の商船から税を徴収することが主な仕事であった蠣崎氏は、徐々にその実権を強化していき、第五代蠣崎慶広は、天正十八年(一五九〇)十二月京都に上って豊臣秀吉に謁見し、従五位下民部大輔に任ぜられ、安東氏の支配から脱し、蝦夷島の支配を認められた。
次いで文禄二年(一五九三)一月肥前の名護屋において秀吉に謁し、志摩守に任ぜられ「朱印の制書」を賜わったのであるが、その法令の内容は次のとおりであった。(新北海道史第二巻所載)
於二松前一、従二諸方一来船頭商人等、対二夷人一、同二地下人一、非分儀不レ可二申懸一。並航役ノ事、自二前々一、如二有来一、可レ取レ之。自然此旨於二相背族在一レ之者、急度可二言上一、速可レ被レ加二御誅罰一者也。
文禄二年正月五日 朱印
蠣崎志摩守とのへ
これを書き下し文にしてみると、
松前に於て、諸方より来る船頭商人等、夷人に対し地下人と同じく、非分の儀申懸くべからず。並びに船役の事、前々より有り来りの如く、これを取るべし。自然この旨に相背く族(うから)これあるに於ては、急度言上すべく、速かに御誅罰加えられるべきもの也
文禄二年正月五日 朱印
蠣崎志摩守とのへ
この法令の示すところは、松前に来る船や商人から、従来どおり税を取り立てる権利を認めるという内容で、実質的には安東氏の臣下を脱して、一国の領主として認めるというものであった。
その後、慶長三年(一五九八)八月秀吉が没し、政治の実権を徳川家康が握ると、慶広は慶長四年(一五九九)十一月家康に謁し、蝦夷島地図及び家譜を奉り、この時から「蠣崎」の姓を「松前」と改めている。
次いで慶長九年(一六〇四)家康から黒印の制書を受け、徳川氏の家臣として秀吉の時よりも、より広い権限を持つことになった。
家康から受けた黒印の制書を、書き下し文で示すと次のようになる。
一 諸国より松前へ出入の者共、志摩守に相断らずして、夷仁と直に商売仕り候儀曲事となすべきこと。
一 志摩守に断わりなくして渡海せしめ、売買仕候者、急度言上致すべきこと。
付、夷の儀は、何方へ往行候とも、夷次第に致すべきこと。
一 夷仁に対し非分申懸くるは、堅く停止のこと。
右条々若し違背の輩においては、厳科に処すべき者也。仍て件の如し
慶長九年正月二十七日 黒印
松前志摩守とのへ
かくして松前氏は、徳川氏の臣下となり交代寄合の資格(大名に準ずる格式)で、一藩を形成するに至った。
このように松前藩は、蝦夷地に支配地を持つようになったのであるが、最初の実支配地は、普通和人地と呼ばれた西は熊石より東は亀田に至る限られた地域が中心であり、それ以外の蝦夷地と呼ばれた地域には、あまり松前藩の勢力は及んでいなかった。
なぜ松前藩は和人地、蝦夷地と分割していたのであろうか、その理由は、蝦夷人(アイヌ人)と和人とのトラブルを防ぎ、両者の取り締りが容易であるように、更に松前藩の実力が蝦夷地全体を掌握するのに十分でなかったからだといわれている。
なお松前藩は、和人地の西端の熊石と、東端の亀田には番所を設置して、出入者、出入船の検査を行っている。