前項でも記したように慶長九年(一六〇四)徳川家康から黒印の制書を受け、蝦夷交易の独占権を与えられた松前氏は、その後領地を多くの場所に分割し、知行として家臣に与えた。
この当時、蝦夷地では米が収穫できなかったので、場所を与えられた家臣(上級武士は知行地を与えられ、下級武士は切米取と称して米を与えられる)は、和人地においては漁獲物を現物税として徴収し、蝦夷地(西、熊石より東、亀田に至る地域以外の地)においては、場所におけるアイヌ人との交易による利益を得ていた。
知行主は最初、各自の場所に運上屋又は番屋(運上屋の小規模のもの)を設け、自らがその経営に当っていたが、次第に自分は場所におもむかず、場所請負人の手にゆだねるようになり、場所を治める権利もまた知行主の手をはなれ、場所請負人の手に移っていった。